1章三節終盤
節の太い指。少し硬い掌。肌へ触れたときに残る、独特のざらつき。肩へ来た手が次にどこへ移るのか、その前にどれほど間を置くのか、こちらがどんな表情をすれば機嫌よく笑うのか。
最初は、そのひとつひとつが嫌だった。
何をされるかわからないことが怖くて、触れられるたび身体を固くし、早く離れてほしいと思っていた。
けれど同じ時間を何度か繰り返すうちに、知らないことが減っていった。
次が予測できる。
その次も、おおよそわかる。
だから身構える場所を決められるし、驚かなくて済む。
そのことに安堵している自分が、若葉は嫌だった。
「……っ。」
不意に肩が小さく揺れた。
「どうした?」
「なんでも……ありません。」
「若葉ちゃん、ほんとわかりやすいな。」
「……そんなこと、言わないでください。」
声が少しだけ柔らかくなる。
それも自分で選んだのか、反射だったのか、若葉にはわからない。
社長は笑い、若葉をベッドへ導いた。背中が柔らかなシーツへ沈み、間接照明が急に近くなったように眩しく感じられて、若葉は片腕で目元を隠した。
その腕を、社長がそっと退ける。
「顔、見せてよ。」
「……恥ずかしいです。」
「今さら?」
「今さらでも、です。」
そんな会話だけを切り取れば、恋人同士にだって聞こえるだろう。
そう考えたら少しおかしくて、けれど同じくらい悲しくもあった。
顔が近づく気配に、若葉は目を閉じる。首筋へ息が触れ、髪の生え際へ指がかかる。知らない相手なら、そのたびに次を考えていたのだろう。
この人なら、考えなくてもわかる。
「……社長。」
「ん?」
「もう少し……優しくしてください。」
その言葉だけは、考える前に出た。
社長の動きが緩む。
髪へ触れる手も、肩を包む掌も、それまでより慎重になった。
「これくらい?」
「……はい。」
目を閉じたまま答える。
指先のざらつきまで、若葉は知っている。
好きではない。
この時間を望んで来たわけでもない。
それでも、知らない相手ではないというだけで、身体のどこかから余計な力が抜けてしまう。
その安堵へ名前をつけるのが嫌だった。
「……あ。」
小さな声が零れた。
社長がわずかに笑う。
「ほら。」
「……言わないで。」
若葉は顔を背けた。
耳のあたりまで赤くなっていくのが、自分でもわかった。
この人が好きだからではない。
ここにいたいからでもない。
ただ、知らない相手よりも、何をしてくるのか知っている相手のほうが楽になってしまった。
それを「慣れ」と呼ぶことだけは、まだしたくなかった。
「若葉ちゃん。」
名前を呼ばれ、若葉は目を開けた。
見下ろしてくる社長の表情には、仕事の打ち合わせでも始めるような穏やかさがあった。
「次のシングル、決まったよ。リリースは来月。」
「……っ。」
息が止まった。
「本当……ですか?」
「ああ。」
胸の奥で、何かが勢いよく跳ねた。
今度だけは違った。
待ち続けていた言葉だった。
まだ歌える。
まだ名前を出してもらえる。
まだ、自分の声が入ったCDが店に並ぶ。
嬉しい。
その感情だけは、疑いようもなく若葉自身のものだった。
気づけば、社長の背中へ腕を回していた。
「ありがとうございます……社長。」
指先が、シャツを強く掴む。
社長はそんな若葉を見て、満足そうに笑った。
再び二人の距離が縮まり、柔らかなシーツがゆっくり沈んでいく。
次のシングルは来月。
まだ、自分は終わっていない。
その言葉を胸の中で繰り返している間だけは、この夜にも何か意味があるのだと思えた。
窓の外では街の明かりが、こちらの事情など何も知らずに瞬いている。
若葉は社長の肩へ顔を寄せ、その光を見ないように目を閉じた。




