1章三節半
広い部屋だった。ベッドの脇には柔らかな間接照明が灯り、テーブルには開封されたシャンパンと二つのグラスが並んでいる。
社長はベッドの端に腰掛け、ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を肘までまくっていた。
若葉を見つけると、いつもの笑顔で軽く手を上げる。
「早いね。お疲れ。」
「……お待たせしました。」
バッグを壁際へ置き、靴を脱ぐ。
一歩近づくだけで、香水と酒の匂いがした。
知らない匂いではない。
立ち上がった社長の腕が腰へ回ってきても、若葉は驚かなかった。引き寄せる強さも、肩へ手が移るまでの間も、こちらが少し体勢を整えるために与えられるわずかな時間さえ、もう知っている。
その自然さが、かえって生々しかった。
「今日もスタッフから連絡あったみたいだね。若葉ちゃん、忙しい子だ。」
「……はい。」
若葉は社長の胸元へ視線を落とした。
シャツのボタンが二つ開いている。その隙間から見える肌も、少し酒の混じった匂いも、指先の硬さも、もう見慣れていた。
「さっきの仕事、終わったばかり?」
「……はい。」
「疲れてないか?」
尋ねる声は優しい。
けれど、返事によって予定が変わる質問ではないことも知っていた。
若葉は写真を撮られるときと同じ程度に口角を上げた。
「大丈夫です。社長からの連絡、すごく嬉しかった。」
事務所。
次のリリース。
歌番組。
レコーディング。
そうした言葉を頭の隅へ並べながら、若葉は社長の肩へそっと手を添えた。
「嬉しいな。おじさん、今日は頑張っちゃうよ。」
「……ふふ。」
出てきた笑い声は、自分でも驚くほど綺麗だった。
社長の指がオフショルダーの肩口へかかり、布地が少しずつ位置を変える。冷房に晒された肌へ、すぐ掌の感触が重なった。
今夜、この衣装をこうして直すことになるのは二度目だ。
その事実に、若葉の中ではもう大きな驚きさえ起こらない。
「綺麗だな。そういえば、この業界に来て最初にこういうこと教えたの、俺だったっけ?」
「はい、社長。社長の触り方、優しくて……好き。」
嘘だった。
最初の相手は別の男。
顔も名前も、今ではずいぶん曖昧になっている。
けれど──社長の手は覚えている。




