1章三節わ
タクシーを降りた若葉は、ホテルの入り口で一度だけ深く息を吸った。
夜気で冷えた空気を肺に入れ、ガラス扉の向こうにある暖かな照明を見つめる。ほんの数秒立ち止まったところで何かが変わるわけでもなく、自動ドアが開くと若葉はそのまま吸い込まれるように中へと入った。
空調の効いた空気が首筋を撫でる。
ロビーを横切る若葉に対して、フロントの女性が軽く会釈した。フードを被ったままの若葉は、頭を下げることもなく、足早にエレベーターへと向かう。
送られてきた部屋番号は、最上階に近いフロアだった。
扉が閉まり箱が静かに上昇していく間に、若葉はバッグからリップを取り出した。鏡は見ない。乾いた唇へ薄く色を重ね、軽く上下を合わせる。
化粧直しというより、もう一度「若葉」に戻るための作業だった。
到着を知らせる音が鳴る。
部屋の前まで歩くと、若葉はスカートの裾を整え、ストッキングへ指を滑らせて皺が残っていないことを確認した。
今夜二度目の身支度。
そんな言葉が浮かび、ほんの少し笑いそうになる。
もちろん、笑えることではなかった。
ノックをすると、ほとんど間を置かずして、聞き慣れたその声が返ってくる。
「開いてるよ。」
若葉はドアを開けた。




