1章二節
何で、こんなことになってしまったのだろう。
一人きりになった控え室で、若葉はテーブルの木目をぼんやり眺めていた。デビューしたばかりの頃なら、「若葉です」と名乗るだけで少し誇らしかった名前も、もっと若く、新しく、勢いのある子たちが次々に出てくる今では、以前ほど簡単に口にできなくなっていた。
テーブルの上で、スマートフォンが震える。
『ゴメン若葉ちゃん、今日この後もう1本行ける?』
先ほどのスタッフだった。
その下には、一枚の写真が添えられている。シングルCDの制作を担当する子会社の社長。見慣れた顔を確認した瞬間、若葉の中から考える前に言葉が浮かんだ。
またコイツか。
けれど、驚きはしなかった。
この誘いから逃れられないことも、断れば何が変わり、何が減っていくのかも、若葉はもう知っていた。理由を最後まで考えることなく、親指がスタンプの一覧を開く。
指が止まったのは、無料で使えるいつものやつ。
犬が満面の笑みで両手に大きな「OK」のバッジを掲げているそれを、慣れた手付きでタッチする。
送信済みの表示が出たあとも、若葉はしばらく画面を見つめていた。明るい犬の顔だけが場違いなほど元気で、画面が暗くなってようやく指を離す。
「……また、か。」
小さく呟き、テーブルに置いてあったコンパクトを開いた。
鏡の中の化粧は、それほど崩れていない。先ほどまでの仕事の名残でリップだけが少し濃く見えたので、ティッシュで軽く押さえ、バッグから取り出した薄い色を重ね直す。
濃い色だと、あの社長は「若作りしてる」と言う。
そんな好みまで知っている自分に何も感じないふりをしていると、スマートフォンが再び震えた。
『了解!じゃあこのあと11時にいつものホテルで。部屋番号は後で送るね。お疲れさま。』
いつものホテル。
その四文字にだけ、目が止まった。
若葉は返信をせず、スマートフォンをバッグへ押し込んだ。中には予備の下着、消臭スプレー、歯ブラシ、それから細かな化粧道具が入っている。最初はスタッフから「念のため」と渡されたものだったが、足りなくなるたび自分で買い足すようになり、いつからかバッグの中にあること自体を不思議に思わなくなっていた。
立ち上がると、膝に少し力が入りにくかった。
さっきまでの時間が疲労として残っている。痛いというほどではない。ただ、衣装の内側へ残る違和感や脚の重さが、一度終わったはずの仕事を身体だけに覚えさせていた。
「……しょうがないよね。」
誰かに聞かせるわけでもなく呟くと、若葉はバッグを肩へと掛けた。
廊下の照明は白く、妙に明るかった。
エレベーターへ乗り込むと、鏡張りの壁を見ないように視線を扉へ置く。片手はバッグの中のスマートフォンを握っていた。
社長の顔が浮かぶ。
四十を少し過ぎたくらい。若葉がデビューした年、最初に「食事に行こう」と誘ってきた男でもあった。
あの頃は、まだ断れると思っていた。
到着音が鳴り、一階のロビーへ出る。誰も若葉を見ていない。それがありがたくもあり、少し不思議でもあった。
フードを深く被り、外へ出る。
夜の空気が首筋に触れて初めて、そこへ汗が残っていたことに気づいた。
通りへ出てタクシーを拾い、ホテルの名前を告げる。運転手は何の反応も見せず、メーターを倒して車を走らせた。
それでよかった。
窓の向こうを流れていく看板やコンビニの明かりを眺めながら、若葉は膝の上へ両手を置いた。ストッキング越しに指先を滑らせると、先ほどまで意識しないようにしていた疲労に混じったそれが、布の感触と一緒に伝ってくる。
バッグの中で、またスマートフォンが震えた。
部屋番号。
若葉は数字を確認し、そのまま画面を閉じる。
「……はぁ。」
視線を窓の外へと戻すと、ホテルはもう、目の前にあった。




