1章一節半
男の肩へと置かれた若葉の手。
押し返すためでも、抱き寄せるためでもない。ただ、行き場のなくされた手がそこへと預けられただけ。
「大丈夫?」
「……はい。」
返事だけは、驚くほど早く出た。
笑顔を求められれば笑い、名前を呼ばれれば振り向き、「大丈夫?」と聞かれれば「はい」と答える。カメラの前でも、握手会でも、インタビューでも、そうしてきた。相手が欲しい反応を先回りして返すことは、いつの間にか若葉という仕事の一部になっていたのだ。
だから今も、言葉だけが自分より先に動く。
衣装が少しずつ乱れ、首筋へ近づく気配や、肩をなぞる指、髪に触れる手の感触がひとつずつ増えていくうちに、若葉は顔を横へ向けた。
壁際の鏡の中から見つめ返す、もう一人の自分。
ステージの上で何度も見られてきた衣装で、何度も作られてきた髪型で。
そこにいるのは、間違いなく若葉のはずだった。
けれど、鏡の中でソファに沈みこんでいる少女は、自分とは少し違う場所に取り残されているように見える。
「若葉ちゃんって、思ってたより素直なんだね。」
「……やめて、そんなこと言わないで。」
本気で嫌だと思ったはずなのに、出てきた声はあまりにも弱かった。
男は困ったように笑っただけ。
若葉もそれ以上の言葉は続けられない。
やがて部屋から余計な音が消えていった。
時計の針、ソファの小さな軋み、衣擦れ、すぐそばで繰り返される息遣い。
それらだけが妙にはっきりと耳に残り、若葉はいつからか、天井だけを見るようになっていた。
白い天井の隅にある、いつもの小さな染み。
そこだけを見ていればいい。
形の曖昧な染みを目でなぞり、これは鳥に見えるとか、雲にも見えるとか、そんなことを考えている間だけなら、意識をこの部屋の少し外側へ置いておけるような気がした。
けれど、身体までは連れていけない。
「あっ……。」
不意に零れた声に、若葉自身がいちばん驚いた。
「若葉ちゃん、いい声出すね。」
「……っ、聞かないで……。」
視線を天井へ縫いつけたまま、若葉は頬へ集まる血の気を感じていた。恥ずかしいのか、怖いのか、それとも単に自分の声を聞かれたことが嫌なのか。
男の肩へ置いていた腕には、いつの間にか力が入っていた。
離れようとしているのか、ただ何かにつかまっていたいだけなのか。
自分でも、わからなかった。
若葉は天井の染みを見つめ、壁の時計が進んでいくことだけを待った。
あと少し。
もう少しだけ。
心の中でそう数えているうち、不意に部屋の空気が緩んだ。
すぐそばにあった気配が離れ、そこへ冷房の風が入り込んだときになって、若葉はようやく、自分が長い間ずっと浅く息をしていたことに気づいた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
少し広くなったソファの上で、若葉は膝を揃え、乱れた衣装へ手を伸ばした。留め具を一つ戻すだけなのに指先がうまく噛み合わず、二度、三度とやり直す。
「……お疲れ様。」
男がティッシュを差し出した。
若葉は小さく頷き、それを受け取った。
「ありがとうございます……。」
仕事の終わりなら、たぶん正しい言葉だった。
そう思った瞬間、胸の内側へ薄い冷たさが広がった。
壁の時計を見ると、まだ三十分しか経っていない。何時間もここにいたような気もするのに、時計の上では、それほど大した時間ではないらしい。
「……次の人、いるんでしたっけ。」
口にした声が掠れていて、自分のものなのに少し遠く聞こえた。
男はジャケットを羽織りながら、軽く笑った。
「今日はもう終わり。ゆっくりしていっていいよ。」
「……そう、ですか。」
ドアが閉じると、部屋に静けさが戻った。
今度は、本当に若葉ひとりだけだった。
彼女はソファへ深く座り直し、乱れた髪をゆっくり指で梳いた。まだ鏡を見る気にはなれず、胸元の汗を拭い、ずれた衣装の肩を元の位置まで引き上げる。
布が肌を覆った。
たったそれだけで、少しだけ安心した。
三十分。
若葉という名前もある。仕事もある。明日の予定も、何ひとつ消えていない。
それなのに自分の一部だけが、まだ鏡の中の少女と一緒に、あのソファへ置き去りにされているような気がした。




