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あいどるwakaba 全ての紳士たちへと贈るR15の輝き  作者: 鈴木 厳流彩


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1章一節半


 男の肩へと置かれた若葉の手。

 押し返すためでも、抱き寄せるためでもない。ただ、行き場のなくされた手がそこへと預けられただけ。


「大丈夫?」


「……はい。」


 返事だけは、驚くほど早く出た。


 笑顔を求められれば笑い、名前を呼ばれれば振り向き、「大丈夫?」と聞かれれば「はい」と答える。カメラの前でも、握手会でも、インタビューでも、そうしてきた。相手が欲しい反応を先回りして返すことは、いつの間にか若葉という仕事の一部になっていたのだ。


 だから今も、言葉だけが自分より先に動く。


 衣装が少しずつ乱れ、首筋へ近づく気配や、肩をなぞる指、髪に触れる手の感触がひとつずつ増えていくうちに、若葉は顔を横へ向けた。


 壁際の鏡の中から見つめ返す、もう一人の自分。


 ステージの上で何度も見られてきた衣装で、何度も作られてきた髪型で。

 そこにいるのは、間違いなく若葉のはずだった。

 けれど、鏡の中でソファに沈みこんでいる少女は、自分とは少し違う場所に取り残されているように見える。


「若葉ちゃんって、思ってたより素直なんだね。」


「……やめて、そんなこと言わないで。」


 本気で嫌だと思ったはずなのに、出てきた声はあまりにも弱かった。

 男は困ったように笑っただけ。

 若葉もそれ以上の言葉は続けられない。


 やがて部屋から余計な音が消えていった。

 時計の針、ソファの小さな軋み、衣擦れ、すぐそばで繰り返される息遣い。

 それらだけが妙にはっきりと耳に残り、若葉はいつからか、天井だけを見るようになっていた。


 白い天井の隅にある、いつもの小さな染み。


 そこだけを見ていればいい。


 形の曖昧な染みを目でなぞり、これは鳥に見えるとか、雲にも見えるとか、そんなことを考えている間だけなら、意識をこの部屋の少し外側へ置いておけるような気がした。


 けれど、身体までは連れていけない。


「あっ……。」


 不意に零れた声に、若葉自身がいちばん驚いた。


「若葉ちゃん、いい声出すね。」


「……っ、聞かないで……。」


 視線を天井へ縫いつけたまま、若葉は頬へ集まる血の気を感じていた。恥ずかしいのか、怖いのか、それとも単に自分の声を聞かれたことが嫌なのか。


 男の肩へ置いていた腕には、いつの間にか力が入っていた。


 離れようとしているのか、ただ何かにつかまっていたいだけなのか。


 自分でも、わからなかった。


 若葉は天井の染みを見つめ、壁の時計が進んでいくことだけを待った。


 あと少し。


 もう少しだけ。


 心の中でそう数えているうち、不意に部屋の空気が緩んだ。


 すぐそばにあった気配が離れ、そこへ冷房の風が入り込んだときになって、若葉はようやく、自分が長い間ずっと浅く息をしていたことに気づいた。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 少し広くなったソファの上で、若葉は膝を揃え、乱れた衣装へ手を伸ばした。留め具を一つ戻すだけなのに指先がうまく噛み合わず、二度、三度とやり直す。


「……お疲れ様。」


 男がティッシュを差し出した。


 若葉は小さく頷き、それを受け取った。


「ありがとうございます……。」


 仕事の終わりなら、たぶん正しい言葉だった。


 そう思った瞬間、胸の内側へ薄い冷たさが広がった。


 壁の時計を見ると、まだ三十分しか経っていない。何時間もここにいたような気もするのに、時計の上では、それほど大した時間ではないらしい。


「……次の人、いるんでしたっけ。」


 口にした声が掠れていて、自分のものなのに少し遠く聞こえた。


 男はジャケットを羽織りながら、軽く笑った。


「今日はもう終わり。ゆっくりしていっていいよ。」


「……そう、ですか。」


 ドアが閉じると、部屋に静けさが戻った。


 今度は、本当に若葉ひとりだけだった。


 彼女はソファへ深く座り直し、乱れた髪をゆっくり指で梳いた。まだ鏡を見る気にはなれず、胸元の汗を拭い、ずれた衣装の肩を元の位置まで引き上げる。


 布が肌を覆った。


 たったそれだけで、少しだけ安心した。


 三十分。


 若葉という名前もある。仕事もある。明日の予定も、何ひとつ消えていない。


 それなのに自分の一部だけが、まだ鏡の中の少女と一緒に、あのソファへ置き去りにされているような気がした。

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