1章一節
1節
控え室のドアが閉まった瞬間、若葉は細く息を吐いた。
薄いピンクのオフショルダー衣装は、何度も直したせいですでに少し形が崩れていた。肩口から覗く肌へ冷房の風が触れるたび、そこだけを誰かに指さされているようで落ち着かない。鏡の前なら気にも留めない程度のずれなのに、この部屋では布一枚の位置までが、自分を守る境界のように思えた。
スタッフから言われたのは、ただの一言。
「今日のクライアントはVIPだから、丁寧にね。」
それだけで、若葉はここへ送り出された。
ソファには、すでに男が座っていた。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めた姿のまま、部屋へ入ってきた若葉を黙って見つめている。その視線が肩から胸元へ、それから腰のあたりまでゆっくり落ちていくのがわかり、若葉は考えるより先に膝を揃えた。
「……若葉ちゃん、だよね。今日はよろしく。」
「はい……。よろしくお願いします。」
声が、自分でもわかるほど掠れていた。
隣へ腰掛けると、クッションがわずかに沈んだ。
その傾きだけで二人の距離が縮まり、若葉は壁際の時計へ一度だけ目をやった。秒針は何も知らない顔で進んでいる。
「緊張してる?」
「……少し、だけ。」
男は軽い調子で笑った。その何気ない笑顔が、怒鳴られるよりもかえって逃げ道を塞いでくるように思えて、若葉も曖昧に口元を動かした。
やがて腰へ腕を回され、身体がゆっくりと引き寄せられる。重心を崩した背中がソファへ沈み、それに合わせて衣装の肩口もさらにずれた。露わになった肌へ近い息が触れ、反射的に布を戻しかけた指が、途中で止まる。
直していいのか、少し離れていいのか、それともここでは何もせず受け入れることが「丁寧」という意味なのか。
所属する事務所だけではない。親、学校、友達。
その誰からも、そこまでは教われなかった。
「んっ……。」
触れられた瞬間、喉の奥から小さな音が零れる。
それが自分の声だとわかるまで、ほんの一拍遅れた。




