一章6節半
何度も直したオフショルダーを脱いでハンガーへ掛けると、少し形が崩れて見えた。ストッキングと下着もまとめて洗濯機へ入れ、蓋を閉じる。それだけで、今日という一日の一部をひとまず視界から遠ざけられた気がした。
シャワーを出す。
お湯が肩へ落ちた瞬間、若葉の身体が小さく震えた。
首筋から鎖骨を伝い、胸元を抜けて腹部へ流れていく熱を、若葉は壁へ片手をついたまま黙って見送った。いつもなら何も感じないはずの湯が、今夜に限って妙に輪郭を持って肌へ触れてくる。
身体のところどころには、まだ熱が残っていた。
痛いわけではない。ただ、自分の身体なのに、触れる前からそこに何かがあるとわかってしまうような、鈍く曖昧な感覚だった。
若葉はボディソープを掌で泡立て、肌へ滑らせていく。
首筋を洗い、肩を撫で、その手が胸元へ差しかかったところで、ほんの一瞬だけ止まった。
さっきまで誰かの手があった場所へ、今度は自分の指が触れる。
「……っ。」
思いがけず身体が小さく反応して、若葉は眉を寄せた。
そんな自分が少し嫌だった。
好きだったからではないし、求めていたからでもない。ただ身体というものは、本人が忘れたいと願ったからといって、都合よく何もかも手放してくれるわけではないらしい。
若葉は何事もなかったように掌を離し、脇から腹部へ泡を滑らせた。温かな湯がそのあとを追いかけ、肌の上に残った石鹸をゆっくり洗い流していく。
誰かの香水も、ホテルのシーツも、汗も、少しずつ石鹸の香りへ塗り替えられていった。
それから髪を濡らす。
黒い髪が重たく頬へ張りつき、流れる湯とともに化粧が崩れていく。ファンデーションは薄れ、唇に残っていた色も消え、目元から落ちた黒が足元の水へ溶けていった。
ライトの下で綺麗に見えるよう作られた「若葉」が、湯の中で少しずつほどかれていく。
表面に残ったものなら、こうして消せる。
そう思いながら目を閉じた瞬間、ホテルの間接照明が浮かんだ。
『次のシングル、決まったよ。』
社長の声まで、ひどく鮮明に蘇る。
泡を流していた若葉の手が止まった。
嬉しかった。
思い出しただけで、胸の奥がほんの少しだけ跳ねる。
今日という夜を丸ごと嫌いだと切り捨てられれば、どれほど楽だっただろう。あの部屋も、触れられたことも、そこで交わした言葉も、すべて嫌だったと言い切ってしまえれば、それで終わることができたのかもしれない。
けれど、あの一言だけは違った。
まだ歌える。まだ若葉という名前でステージへ立てるし、自分の声をもう一度誰かの手へ届けることができる。
あの瞬間に込み上げた喜びだけは、相手を喜ばせるために作った表情でも、求められたから返した言葉でもない。
間違いなく、若葉自身のものだった。
だからこそ、それが苦しかった。
「……もう、いいよね。」
若葉は小さく呟いた。
誰に言ったのか、自分でもわからない。今日のことを忘れていいという意味だったのか、それとも、あの瞬間に嬉しいと思った自分を許していいという意味だったのか。
若葉はお湯の温度を少し下げた。
熱を持っていた肌へ冷たさが混じった瞬間、身体の奥まで静かになっていくような気がして、若葉は目を閉じた。
そのまましばらく水へ身体を預けていると、肌に残っていた匂いも汗も化粧も足元へ集まり、ねばついた小さな渦となって白く排水口へと消えていく。
けれど、身体に刻み込まれてしまったものも、心が覚えてしまったものも、湯には溶けてくれなかった。
やがてシャワーを止めると、それまで絶え間なく響いていた水音が消え、急に静かになったバスルームに自分の呼吸だけが近く聞こえた。
若葉はタオルを身体へ巻き、濡れた髪をゆっくり拭いてから、ようやく正面の鏡を見る。
そこにあったのは、化粧のない自分の顔だった。
ライトに合わせて整えられた肌も、色を重ねた唇もない。目の下にはうっすらと影があり、濡れた前髪が額へ貼りついている。髪から落ちた一滴の水が鎖骨を伝い、タオルの縁へ静かに吸い込まれていった。
若葉はしばらく、その顔を見つめていた。
ステージで笑う若葉でもなければ、ホテルで誰かに求められる若葉でもない。相手が望む反応を先回りして返すための顔でもない。
ただ、自分の顔。
今だけは、そう思いたかった。




