オマエハダレダ
退屈な授業を終えると、昼休みのチャイムが鳴った。
朝の騒ぎが嘘だったかのように、教室にはいつもの昼休みが戻ってきた。
椅子を引く音。
弁当箱の蓋を開ける音。
窓際から聞こえてくる笑い声。
誰も、今朝のことをいつまでも気にしている様子はない。
けれど。
蓮は、自分の席に座ったまま、少し離れたところにいる悠真を見ていた。
黒田悠真。
確かに消えたはず。
そして今は、何事もなかったようにクラスの中にいる。
周りの生徒たちにとっては、それが当たり前なのだ。
悠真がいなくなったこともない。
あの放送も。
何も。
その事実を知っているのは、蓮と紗季と理央だけだった。
「……」
蓮は小さく息を吐いた。
このまま考えていても答えは出ない。
そう思い、立ち上がる。
「.......悠真」
「ん?」
悠真が振り返った。
その顔を見た瞬間、蓮の胸の奥がわずかに痛んだ。
やっぱり、悠真にしか見えない。
声も。
表情も。
いつもの仕草も。
何一つおかしくない。
だからこそ、余計に胸が苦しくなった。
「ちょっといいか」
「何?」
蓮は悠真の前まで歩く。
朝のことが頭に浮かんだ。
教室で言い争って。
互いに頭に血が上って。
気づけば、取っ組み合いになっていた。
あのときの感情が、まだ身体の奥に残っている。
蓮は一度、目を伏せた。
「……朝のこと」
「朝?」
「俺とお前が取っ組み合いになったやつ」
「ああ」
悠真は少し気まずそうに頬を掻いた。
「まあ……蓮の中で何かあったんだろ?」
蓮は顔を上げた。
「悪かった。」
悠真が黙る。
「俺、感情的になってた。お前にあんなことするつもりじゃなかった」
「……」
「本当に、ごめん」
しばらくして、悠真が小さく笑った。
「もういいって」
「俺も悪かったから」
そう言って、悠真は蓮の肩を軽く叩いた。
「気にすんな」
「……ああ」
蓮は頷いた。
その瞬間だけは、本当に昔の悠真と話しているような気がした。
「蓮、こっち」
紗季の声がした。
見ると、紗季と理央が机を寄せている。
そこには四つの弁当箱が並んでいた。
蓮。
紗季。
理央。
そして───悠真。
蓮は椅子を引いて座る。
理央が弁当を食べながら、悠真をちらりと見る。
ほんの一瞬。
けれど、その視線には警戒が滲んでいた。
悠真がそれに気づく。
「理央、どうした?」
「え?」
「さっきから俺のこと見てない?」
「……別に」
理央はすぐに視線を弁当に落とした。
「ちょっと考え事してただけ」
「そっか」
悠真はそれ以上追及しなかった。
紗季が何気なく口を開く。
「そういえば、悠真休んでたけど体調悪かったの?」
「俺?」
「うん」
「……?」
悠真が首を傾げる。
「先一昨日の放課後からの記憶、ないんだよな」
空気が止まった。
蓮の箸が、弁当箱の上で止まる。
紗季も一瞬だけ固まった。
理央は俯いたまま、何も言わない。
悠真は三人の顔を見回した。
「……どうした?」
「いや」
蓮が答えた。
「何でもない」
「そう?」
「ああ」
悠真は不思議そうにしながらも、また弁当を食べ始めた。
蓮は横目で理央を見る。
理央も、ほんの一瞬だけ蓮を見る。
二人の視線が重なった。
先一昨日からのことを、覚えていない。
それは三人にとって、真偽は不明だが少しだけ安心する事はできた。
理央の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
それを見て、蓮も息を吐いた。
悠真はふと三人を順番に見る。
「なんか、俺に言いたいことあるの?正直に言ってよ。」
誰も答えなかった。
教室のざわめきだけが聞こえる。
蓮は喉の奥が乾くのを感じた。
─────まずい。
自分たちは、そんなに分かりやすかったのか。
紗季が先に口を開いた。
「朝、喧嘩したからじゃない?」
「それだけ?」
「……私はそれだけ。」
悠真は少し黙っていた。
そして、理央を見る。
「神谷は?」
「私も同じ」
「……そっか」
悠真は笑った。
「ならいいけどさ」
そう言って、また弁当に箸を伸ばした。
それ以上、悠真は何も聞かなかった。
けれど蓮は、最後まで気が抜けなかった。
*
放課後。
図書室。
窓から差し込む夕方の光が、長い机の上に伸びていた。
蓮と理央と紗季は、周囲を何度も確認してから席についた。
「……誰もいない」
理央が小声で言う。
二人は鞄から資料とノートを取り出した。
ここで調べていることを、悠真は勿論他の知らない生徒にもバレたくはない。
悠真は事件以降のことを覚えていない。
それが本当にただの記憶の欠落なのか。
それとも、別の意味があるのか。
三人にはまだ分からなかった。
理央が古い資料を開く。
「二十年前の記録……」
紙をめくる。
古い名簿。
二年三組。
六月十七日。
そして、複数の生徒の名前。
理央の指が止まった。
「……白石美月」
紗季が身を乗り出す。
その下には、当時の生徒たちの記録が並んでいた。
さらにページをめくる。
古い集合写真。
蓮の眉が寄る。
「また六人……」
「しかも」
理央が写真の端を指差した。
「この写真、また他の記録と人数が合わない」
「どういうこと?」
「名簿には五人しか載ってない」
蓮は写真と名簿を交互に見た。
「……じゃあ、この六人目は誰なんだ?」
理央は答えなかった。
写真の中の六人目。
その顔だけが、やはり古い傷のようにぼやけている。
────悠真の写真はどうなっているのだろう。
そう考えた時だった。
ガラッ。
手が止まった。
すぐに図書室の扉が開いた。
「……っ」
三人が同時に顔を上げる。
足音が聞こえてくる。
一歩。
二歩。
近づいてくる。
紗季の顔から血の気が引いた。
「……蓮」
「分かってる」
三人は同時に資料を閉じた。
蓮が上からノートを重ねる。
理央は写真を名簿の間に滑り込ませる。
足音が止まった。
そして。
「蓮?」
その声を聞いた瞬間、蓮の背筋が強張った。
悠真だった。
「ここにいたのか。」
悠真が扉から顔を出す。
何でもないように嗤っている。
「……悠真」
「何してんの?」
「テスト近いから三人で勉強してたんだよ。」
無理やり蓮は笑った。
「俺抜きで?」
悠真は少し顔を顰めた。
「悠真は病院行くのかなって」
「行くけど時間あったから蓮達探してたんだよ。」
悠真が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
蓮は机の上に置いたノートから手を離さなかった。
その下には、さっきまで見ていた資料がある。
悠真が机の横まで来る。
「何のノート?」
「数学。」
「蓮は数学苦手だもんな。」
「だから今教えて貰おうとしてた」
「ふーん」
悠真の視線が机の上をゆっくりと動く。
その視線に合わせて見るとまだ隠せていない資料があった。
「……あの資料で何か調べてんの?」
蓮の心臓が跳ねた。
「別に」
「本当に?」
「ちょっと勉強の息抜きで見てただけだよ。」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。
「へえ」
悠真は笑った。
「珍しいな。お前がそんなの見るなんて」
「たまにはな」
「そっか」
悠真はそれ以上聞かなかった。
その代わり、机の上の資料に手を伸ばした。
蓮の身体が強張る。
けれど、悠真が取ったのは別の資料だった。
「これ、懐かしいな」
悠真は適当にページをめくる。
蓮はその横顔を見ていた。
何も表情が変わらない。
それなのに、ずっと落ち着かない。
「じゃあ、俺は帰るわ」
悠真が資料を戻した。
「おう」
「じゃあな」
「……ああ」
悠真は図書室を出ていった。
扉が閉まる。
足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。
コツ。
コツ。
コツ。
やがて、その音も聞こえなくなった。
三人は足音が聞こえなくなっても会話はできなかった。
*
悠真は一人、病院へ向かっていた。
夕暮れの道路を、一定の歩幅で歩いている。
制服のポケットに手を入れたまま、前だけを見ていた。
病院の建物が見えてくる。
悠真は足を止めた。
しばらく建物を見上げる。
そして、何事もなかったように中へ入っていった。
受付を通り、廊下を進む。
病室の前で立ち止まる。
ドアの向こうから、かすかな声が聞こえた。
「……悠真?」
悠真がドアを開ける。
ベッドのそばにいた母親が、顔を上げた。
一瞬、何が起きたのか分からないように目を見開く。
「悠真……?」
悠真は何も言わない。
母親は立ち上がる。
そして次の瞬間。
「悠真!」
泣きながら駆け寄り、その身体を強く抱きしめた。
「よかった……!」
声が震えている。
「本当に……よかった……!」
何度も名前を呼びながら、母親は悠真を離さない。
その姿を、悠真は黙って見下ろしていた。
母親の肩が震えている。
涙が制服に落ちる。
「どこに行ってたの……」
悠真は答えなかった。
「……」
ただ悠真が戻ってきたことを喜び、何度もその名前を呼び続けている。
悠真はそんな母親とは対照的に
─────嗤っていた。




