偽物はニセモノ
朝の昇降口は、いつもより騒がしかった。
神谷理央は、自分の下駄箱を開けた。
上履きを取り出し、履き替える。
靴箱の扉を閉める。
ぱたん、と小さな音がした。
その音を聞きながら、理央は昨日のことを思い出していた。
───悠真のお母さん。
病院の白い壁。
震える声。
『一昨日から病院に来てないのよ』
「……」
理央は自分の手を見る。
少し冷えている。
朝の空気のせいなのか。
それとも、別の理由なのか。
昨日までなら、こんなことを考えたりしなかった。
怖い。
そう思っている自分が、少し意外だった。
理央は、普段なら何か分からないことがあれば調べる。
感情よりも事実。
思い込みよりも証拠。
でも、今回ばかりは違う。
目の前で起きたことを、いくら考えても説明できない。
黒田悠真が消えた。
それなのに、学校は何も変わらない。
そして、その異常さに気づいているのは──
自分たちだけ。
二十年前の二年三組。
白石美月。
六月十七日。
六人目。
悠真が調べていたもの。
そして、まだ分かっていないこと。
理央は鞄の持ち手を握り直した。
───まずは白石に聞く。
昨日、二十年前のことを調べていく中で分かったことは多かった。
けれど、それでも肝心な部分は分からない。
なぜ白石は狙われたのか。
五人は何をしようとしていたのか。
六月十七日に、二年三組で何が起きたのか。
そして────
『あの人は私を助けるために六人目になった』
あの人とは、誰なのか。
本人に聞けば分かるかもしれない。
いや。
分からなくてもいい。
少なくとも、何かは聞ける。
理央は昇降口を離れ、二年三組へ向かおうとした。
そのときだった。
廊下の先に、一人の女子生徒が見えた。
黒髪。
見覚えのある横顔。
「……白石」
白石美月だった。
理央は思わず足を止める。
昨日までなら、偶然会えただけで何とも思わなかった。
でも今は違う。
聞きたいことがありすぎる。
理央は一歩、前へ出た。
「白───」
声をかけようとした。
その瞬間。
「ちょっと、押すなって!」
「何? 何があったん?」
「二年三組らしいぞ!」
突然、後ろから大勢の生徒が押し寄せてきた。
「……っ」
肩がぶつかる。
身体が横へ流される。
「待って……!」
理央は白石へ手を伸ばした。
けれど。
人。
人。
人。
次々と生徒が間に入り、視界が塞がれていく。
白石の姿が、人の波の向こうへ消えた。
「白石!」
呼んだ。
返事はない。
もう一度探す。
いない。
「……どこに行ったの」
......自分の見間違いだったのだろうか。
ふと周りに目をやると、周囲の生徒たちは二年三組の方へ向かっていく事に気づいた。
何かが起きている。そう思った。
そして、その直後。
「佐伯と黒田が喧嘩してるらしい」
すぐ近くを通った男子生徒の声が、理央の耳に入った。
「……黒田?」
足が止まった。
聞き間違い。
そう思ったが、
「黒田悠真。朝からヤバいくらい揉めてるって」
────心臓が、強く鳴った。
「…………悠真?」
頭の中が、一瞬だけ真っ白になる。
そんなはずがない。
だって。黒田は
「消えた……はず」
理央は呟いた。
それでも、身体はもう動いていた。
人混みを押し分ける。
階段を上がる。
息が苦しくなる。
それでも止まれない。
もし、本当に悠真がいるのなら。
昨日まで自分たちが探していた悠真が、本当にそこにいるのなら。
今度こそ、自分の目で確かめなければならない。
二年三組。
教室の前まで来た。
中から怒鳴り声が聞こえる。
「ふざけんなよ!」
蓮の声。
理央は扉を開けた。
そして。
「……っ」
言葉を失った。
教室の中央。
蓮と黒田が、向かい合っていた。
蓮の制服は乱れている。
黒田も険しい顔をしている。
周囲の机はいくつか動いていた。
二人は互いを睨みつけている。
「お前が言ったんだろ!」
「だから何だよ!」
「忘れたとは言わせねぇぞ!」
「俺は何も───」
そこで、理央は動けなくなった。
いる。
本当にいる。
黒田悠真が。
昨日まで、自分たちが必死になって探していた人が。
何事もなかったように。
ここにいる。
「……どうして」
理央の言葉は、誰にも届かなかった。
その瞬間。
「何をしてる!」
担任が教室に入ってきた。
「佐伯! 黒田! やめろ!」
教師が二人の間に割って入り、強引に引き離す。
「朝から何をやってるんだ、お前たちは!」
教室が静まり返った。
蓮は悔しそうに拳を握りながら席へ戻る。
悠真も何も言わず、自分の席へ戻った。
理央は座ったまま、悠真を見る。
何度見ても。
いる。
幻でもない。
夢でもない。
確かに、そこにいる。
それなら。
昨日の自分たちは何だったのだろう。
病院で聞いた話は。
悠真が帰ってきていないという話は。
自分たちが追いかけたものは。
全部、間違いだったのか。
やがて朝の会が始まった。
先程の取っ組み合いを一通り注意すると、教師が普段通りに連絡事項を話す。
クラスメイトも、少しすればいつもの調子に戻っていく。
まるで、さっきの喧嘩だけが、朝のちょっとした出来事だったかのように。
やがて朝の会が終わる。
理央はすぐに蓮の席へ向かった。
「蓮」
「……理央」
そこへ紗季もやってくる。
「二人とも……」
三人は教室の隅へ移動した。
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に口を開いたのは蓮だった。
「……悠真が消えたのは、俺がこの目で見た」
理央は黙って頷く。
蓮の声は低かった。
「なのに……なんであいつが、普通にここにいるんだよ」
紗季が不安そうに悠真を見る。
「……私も分かんない」
「私も」
理央が答える。
「でも、黒田が消えた事は間違いだったとは思わない」
蓮が理央を見る。
「じゃあ……何なんだよ」
「分からない」
理央は正直に答えた。
一度、悠真を見る。
そして、少しだけ声を落とした。
「でも……今は、下手に動かない方がいいと思う」
「……なんで?」
「もし、あれが本当に悠真じゃなかったら」
理央は言葉を選ぶ。
「悠真の形をした何かが、私たちを試している可能性だってある」
蓮の表情が険しくなる。
「……」
「今までだって、普通じゃないことが起きてる。だったら、これ以上不用意に動いたら───」
理央は悠真の方を見た。
「存在を消されるかもしれない」
その言葉に、蓮の顔が強張った。
「……」
拳を握る。
助けたい。
今すぐ確かめたい。
昨日まで必死に探していた悠真が目の前にいるのに、何もするなと言われている。
それが、蓮には何より苦しかった。
けれど。
理央の言っていることも分かる。
蓮はしばらく黙ったまま、唇を強く噛んだ。
そして、悔しさを押し殺すように小さく息を吐く。
「……分かった」
「蓮……」
「今は、普段の悠真と同じように接する」
理央が頷く。
「うん。それがいい」
「でも」
蓮は悠真を見る。
その目には、明らかな警戒が残っていた。
「何か変なことがあったら、すぐ教えてくれ」
「もちろん」
紗季も小さく頷く。
「私も気をつける」
三人はそれ以上、悠真について話さなかった。
少なくとも、今は。
教室の中では、いつも通りにする。
笑う。
話す。
友達として接する。
まるで何も知らないように。
───それが今の三人にできる、唯一の方法だった。
理央はもう一度、悠真を見る。
何気なく。
「……」
理央の視線が、悠真の顔で止まる。
どこを見ても、黒田悠真本人だった。
前まで一緒にいた悠真と、何一つ違わない。
目の形も。
眉の位置も。
笑ったときの口元も。
少し癖のある髪の流れまで。
まるで本人の顔を、そのまま作り直したように。
もし、本当に別の何かが悠真の姿をしているのだとしたら。
そこまで考えた瞬間。
別の可能性が、頭に浮かんだ。
────じゃあ。
悠真だけなのか?
もし、この学校にいる誰かが。
自分たちが気づかないうちに。
すでに何かと入れ替わっていたとしたら。
蓮も。
紗季も。
そして────
……私も?
自分の胸に、嫌な感覚が広がった。
理央は無意識に、自分の顔に触れた。
指先が、頬に触れる。
ちゃんと自分の感触がある。
それなのに。
自分が本当に自分なのか。
それを証明する方法を、理央は思いつかなかった。
「……」
教室の中は、いつも通り騒がしい。
誰も気づいていない。
誰も疑っていない。
その日常の中で。
理央だけが、ひとつの考えから離れられなくなっていた。
私たちは、本当に全員が「本人」なんだろうか。
そう考えた瞬間。
背筋が、ぞくりと冷えた。




