君の手を取る理由
夕暮れが街を染め始めても、紗季の家だけは、時間が止まったように静かだった。
カーテンの隙間から差し込んだ赤い光が、床の上をゆっくりと伸びている。
テレビはついていない。
聞こえるのは、壁時計の秒針だけだった。
カチ、カチ、と。
一定の間隔で鳴るその音が、妙に耳についた。
紗季はソファの端に座り、両手を膝の上で重ねていた。
向かいには蓮がいる。
さっきから何度も話そうとしているのに、どちらも言葉を選ぶように黙っていた。
蓮が一度、口を開く。
「……それで」
紗季が顔を上げる。
「今日、学校で――」
「……蓮」
小さな声だった。
それでも、蓮は言葉を止めた。
「もう、やめようよ」
「……何を?」
「悠真を探すの」
蓮の眉がわずかに動く。
「……なんでだよ」
「危険だし、怖いから」
紗季は視線を落とした。
「昨日のこと、まだ頭から離れない」
指先が震えている。
それを隠すように、紗季は手を強く握った。
「あんなの……普通じゃないよ」
昨日の廊下。
放送の低く鋭い声。
思い出そうとしたわけじゃない。
なのに、勝手に蘇ってくる。
「私、昨日からずっと考えてた」
「……」
「学校、休もうかなって」
蓮は何も言わなかった。
「本当に行きたくなかった」
紗季は窓の外を見る。
もうすぐ夜になる。
それだけなのに、妙に不安だった。
「六時っていう時間まで怖くなった」
「……」
「時計を見るたびに、また何か起きるんじゃないかって思う」
紗季は小さく息を吐いた。
「だから……もう関わりたくない」
「……だったら」
蓮が低い声で言った。
「俺一人で行く」
「それの方が嫌!」
紗季はすぐに答えた。
蓮が顔を上げる。
「じゃあ、どうしろってんだよ」
「分かんないよ……!」
思ったより大きな声が出た。
紗季自身が驚いて、口を閉じる。
「……ごめん」
「いや……」
「私だって分かんないんだよ」
声が少しずつ細くなる。
「どうしたらいいのか……」
目の奥が熱くなる。
「ただ、怖いんだよ……」
蓮は黙っていた。
紗季はその沈黙の中で、昨日のことを思い出していた。
悠真が委員会へ向かったとき。
いつも通りだった。
明日の宿題の話をして。
くだらないことで笑って。
だから、何も疑わなかった。
「……昨日さ」
紗季がぽつりと言った。
「悠真が委員会に行くって言ったとき、私……何も思わなかったんだよね」
「……ああ」
「『じゃあ、先に帰ろうか』って言ったのも私だった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が重くなった。
「……もし」
紗季はそこで止まった。
言いたくない。
でも、ずっと考えていた。
「もし、あのとき私が『一緒に帰ろう』って言ってれば、」
「紗季」
蓮の表情が険しくなる。
だが、紗季は続ける。
「悠真、消えなかったのかな」
「紗季!」
「蓮は優しいから私のせいじゃないって言おうとしてるんだよね。」
紗季は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「分かってる。」
紗季は、目を伏せる。
「……」
「でも、考えちゃうんだよ」
膝の上の手に、さらに力が入る。
すると、蓮が口を開く。
「悠真ってさ……昔から、あんまり悲しい感情は出さない奴だったじゃん」
紗季は突拍子もない蓮の話に少し顔を顰める。
「俺たちが馬鹿なことすると、絶対止めてきてさ。」
「……あいつ、昔から自分のことは後回しだったよな」
「もうやめて。」
「俺たちが困ってたら、すぐ助けに来て」
「なのに、自分が困ったときは何も言わない」
蓮の声が震える。
「昨日だって……」
蓮は会話の最中、最後の悠真の姿が浮かぶ。
少し、たじろいでいた。
それでも蓮を呼んだ。
そして、最後まで自分たちのことを気にしていた。
「……怖かったはずなのに」
「……」
「悠真は、ずっと怖かったはずなのに……」
紗季は俯いた。
「俺に何も言わなかった」
蓮は握った拳を見つめた。
「……俺だって怖いよ」
紗季は顔を上げる。
蓮は苦しそうに続けた。
「昨日からずっと、頭の中で何回も思い出してる」
声が少し掠れている。
「悠真が消えた瞬間も」
蓮は一度、息を止めた。
「最後に俺を見た顔も」
目を伏せる。
「……忘れられない」
紗季は黙って蓮を見ていた。
「正直、俺だって逃げたい」
その言葉が、静かな部屋に落ちた。
「もう二度とあの学校に行きたくないって思った」
「……蓮」
「でも」
蓮は顔を上げた。
「悠真をあのままにして、何もなかったことにする方が……俺には無理だ」
紗季は何も言えなかった。
「だから、怖いなら怖いままでいい」
蓮の声はいつもより穏やかだった。
「今から無理に強がらなくていい」
「……」
「俺も怖いから」
その一言が、妙に胸に残った。
紗季はしばらく蓮を見つめた。
ずっと、蓮が平気な顔をして謎を探るのは恐怖より好奇心が勝ってるだけで、その内悠真の事を探すのを諦めるものだと思っていた。
だが、今悠真を取り戻すと言って、本当に前に進もうとしている。
だからより一層、今の自分が凄く惨めに思えた。
「……紗季」
「ん?」
「一人で抱え込むなよ」
蓮が少し目を細める。
これで話を終わりにしよう。蓮はそう考えた。
「……それ、お互い様でしょ?」
「……え」
蓮が面を食らったような顔をする。
「蓮だって、私に何も言わずに一人で行こうとしてたじゃん」
「それは……」
「同じだよ」
紗季は涙を拭った。
悠真を失った今、蓮は誰を頼りにするのか。
「怖いのは私だけじゃないって分かって安心した。」
考えなくとも分かる。私以外いないと。
「……」
「昔から弱虫の蓮がこんなに成長してるなんて思わなかった。」
その声は、今度は震えていなかった。
「はっきり言うけど私.....」
「一人だけ置いてかれてるみたいで今凄く悔しい。」
蓮は黙ったまま紗季を見る。
「蓮が背負ってる物私にも背負わせて。」
紗季の顔は外の暗い景色には似つかわしくない程に輝いていた。
「その方が……たぶん、まだ怖くないから」
蓮はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷く。
「……分かった」
「ほんとに?私強がってる訳じゃない。」
「ああ分かってる。」
「約束?」
「約束」
紗季はようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
部屋に静けさが戻る。
けれど、さっきまでとは少し違う静けさだった。
蓮がソファに深く座り直す。
「……じゃあ」
「うん」
「本題に入る」
紗季が顔を上げる。
「今日、学校で――」
蓮は一度、言葉を切った。
「……理央と、図書室に行ったんだ」
「図書室……?」
紗季の表情が変わる。
蓮は静かに頷いた。
「そこで、悠真のことを調べてたら――」




