第7話 竹林の男
指先が触れた青白い竹の表面から、まるで冷たい氷水が血管を逆流して駆け巡るような衝撃が全身に走った。
政臣が反射的に手を引っ込めようとしたその瞬間、脈動していた光がふっと収まり、竹林の暗がりから、静かで重厚な足音が聞こえてきた。カサリ、カサリと枯れ葉を踏みしめる音は、まるで時間の止まった空間に落とされた雫のように静寂へ染み渡っていく。
「――生きる意欲を失った人間ほど、ここへ誘われやすい」
闇の中から現れたのは、深い藍色と墨色の旅衣を纏った一人の男だった。
歳格好は二十代半ばから三十手前ほどに見える。整った眉目と白磁のように透き通る肌を持ちながら、その瞳は夜の深淵をそのまま写し取ったかのように深く、底知れない陰りをたたえていた。男の佇まいには、人里離れた山中にいる不自然さすら感じさせない、浮世離れした神聖さと、どこかぞっとするほどの冷たさが同居している。
政臣は泥の上に尻餅をつき、声を詰まらせて男を見上げた。
「お前は……誰だ? なぜ、こんな山奥に……」
男は政臣の怯えや驚きなど意にも介さず、淡々とした足取りで一歩近づいた。その手には、深みのある藍色と白銀の糸で編まれた、見たこともない光沢を放つ小さな短冊が握られている。
「名などどうでもいい。ただの通りすがりであり、あるいはお前のような者の絶望を買い取る者だ」
男――ミカヅキの声は、風に揺れる竹の葉音のように低く、澄んでいた。
「菊池政臣。お前はすべてを奪われ、この山で自らの命を捨てようとしていた。……違っているか」
己の名を呼ばれた政臣は息を呑んだ。初対面のはずの男が、なぜ自分の名を知っているのか。そして、己の内に秘めた死への欲望を見抜いているのか。
「……知ったようなことを言うな!」
政臣は悔しさと恐怖が入り混じった感情を爆発させ、泥の手で地面を叩いた。
「お前に俺の何が分かる! 信じていた奴に裏切られ、築き上げた貿易の城も、信用も、家族もすべて奪われたんだ! 莫大な借金まみれで、世間からは嘲笑され……俺にはもう、何も残っていないんだよ!」
叫び声が竹林に虚しくこだまする。だが、ミカヅキの表情は微動だにしなかった。その冷徹な瞳は、過去に幾千もの人間の慟哭を見届けてきた者のそれだった。
「ならば、願うがいい」
ミカヅキは手にしていた短冊を静かに差し出した。
「この短冊にお前の望みを刻め。莫大な黄金か、失った貿易会社を上回る巨万の富か。あるいは、お前を裏切り、資金を持ち逃げした副社長の死か。代償と引き換えに、如何なる奇跡も叶えてやろう」
「な……?」
政臣は耳を疑った。奇跡? 望みを叶える? あまりにも浮世離れした言動に、一瞬「狂人の戯れ言か」と疑いが頭をよぎる。しかし、先ほど目の前で発光していた竹、そして目の前の男が醸し出す人外の圧迫感が、それが単なる虚勢ではないことを政臣の理性に訴えかけていた。
「金……? 黄金をくれるというのか?」
政臣の瞳に、ギラついた浅ましい光が宿った。
「そうだ、金だ! 金さえあれば、あの不渡り手形をすべて買い戻せる! メインバンクの鼻を明かし、手のひらを返した奴らを見返して、もう一度港に俺の船を並べることができる! 金をくれ! 億単位の金をすぐに用意しろ!」
取り乱した政臣の叫びを、ミカヅキは静かに聞き流した。そして、あざ笑うでもなく、ただ哀れむような眼差しで短冊を見つめた。
「――仮に、今ここで天井を知らぬ黄金を与えたとしよう」
ミカヅキの静かな声が、政臣の昂ぶりを冷や水のように冷ます。
「だが政臣、思い出すがいい。お前が一度失った信用は、降って湧いた金で買い戻せるものか? 降って湧いた富で借金を返したとして、お前を裏切った人間たちへの恐怖や、一度折れた己の誇りは取り戻せるのか?」
「それは……」
言葉が詰まった。政臣の頭に、冷酷な現実が呼び覚まされる。
もし、出どころの分からない巨額の金で借金を返したところで、世間は「反社会的勢力から金を引っ張ってきた」「怪しいマネーロンダリングだ」と疑いの目を向けるだろう。裏切られた傷は癒えず、自分の力で立ち上がったわけではない富など、またすぐに誰かに奪われる恐怖に怯えるだけだ。
何より、そんな金で手に入れた平穏など、自分という男の魂をさらに汚すだけではないか。
「お前が真に失ったのは、金でも会社でもない」
ミカヅキは一歩近づき、政臣の目を真っ直ぐに見つめた。
「自分自身の力で未来を切り拓くという『誇り』と『選択する意志』だ。棚から落ちた奇跡で得た富など、お前という人間を救い上げる死に水にはならん」
胸を鋭い刃で貫かれたような衝撃に、政臣は絶句した。
そうだ。自分が本当に欲しかったのは、単に借金を消し去る魔法の金などではない。
もう一度、自分の頭で考え、自分の足で走り、失われた誇りを取り戻すための――「泥を這い上がってでもやり直すための力」だったのだ。他人に与えられた奇跡で生き延びたところで、自分は一生、裏切った男と己の無力さの影に怯えて生きることになる。
あんなにも固執していた執着の皮が剥がれ落ち、政臣の瞳から浅ましい熱が消えていった。
「……そうか。俺は……また他人に救いを求めようとしていたのか」
政臣は自嘲気味に笑い、がっくりと首を垂れた。
「俺は、自分の力で立ち上がりたかったんだ。裏切られたとしても、時代に打ちのめされたとしても……もう一度、俺の力で仲間を集め、汗を流して、自分の商売を創りたかったんだ……」
泥に塗れた手を握り締めながら、政臣の胸の奥底で、途絶えかけていた命の火種が再び静かに燃え上がり始めていた。
その言葉を聞いた瞬間、ミカヅキの目の中に、かすかな変化が生じた。
ただ欲望に塗れて命を乞う無数の人間たちとは異なる、一人の男としての尊厳を取り戻した政臣の姿に、千年の時を静観してきた男の胸が微かに動いたのだ。
(この男は、他の者たちとは違う……)
ミカヅキは胸の内でそう呟いた。
数多の人間がこの場所を訪れ、その絶望を晴らすために甘い幻想や救済を求めてきた。金銀財宝を欲し、他人の不幸を呪い、あるいは己の無力を棚に上げて奇跡にすがりついた。ミカヅキはそれらの願いを機械的に叶えてやり、その度に自分の心がさらに冷たく摩耗していくのを感じていた。
だが、菊池政臣は違った。
一時は死の淵に囚われ、金銭への執着に目が眩んだものの、自らの過ちと失ったものの本質に気づき、自力で這い上がる意思を取り戻した。それは、長い旅路の中でミカヅキがほとんど目にしたことのない、人間の持つ泥臭くも気高い精神の輝きだった。
ミカヅキは懐から、静かに藍色と白銀の光を放つ短冊を取り出した。
それは一枚ではなく、重なり合った三枚の短冊だった。
「――いいだろう」
ミカヅキは政臣の目の前に、その三枚の短冊をそっと差し出した。
「与えるのは、安易な奇跡の金ではない。お前が己の足で立ち上がり、未来を切り拓くための巡りと機会だ。だが、その歩みの途中で、どうしようもない壁にぶつかった時、あるいは自らの力だけでは護りきれない運命に直面した時……この短冊に望みを刻むがいい」
政臣は震える手で、その三枚の短冊を受け取った。
指先に触れた短冊は心地よい温もりを帯びており、彼の心に巣食っていた絶望の冷たさを優しく打ち消していくようだった。
「これは……?」
「三つの道標だ。一つは、お前が自らの手で会社を立て直し、再び世界へ挑むための助けとなるだろう。そして残りの二つは、未来のいつの日か……お前が心から願う重大な岐路で使うことになる」
ミカヅキは静かに微笑みともつかぬ表情を浮かべ、政臣から目を離した。
「生きるがいい、菊池政臣。お前の選んだその誇り高き道が、どこへ続くのか――見届けてやろう」
その言葉を残し、ミカヅキの姿は青白い光の中に溶けるように、ふっとかき消えた。
あとに残されたのは、静まり返った竹林と、三枚の短冊を握りしめて夜空を見上げる一人の男だけだった。




