第8話 再起の代価
山から下りた菊池政臣の姿は、まさに文字通りのボロ布のようだった。
山中で泥と夜露にまみれたウールの上質なスーツは乾燥してパリパリに固まり、特注だったはずの革靴の底は完全に剥がれて、歩くたびに冷たい泥水が容赦なく靴下の中へと染み出してきた。足首やふくらはぎには、あの闇雲な逃避行の最中に負った無数の擦り傷や切り傷が残り、ジンジンとした鈍痛が絶え間なく脈打っている。
だが、その肉体の惨めさとは裏腹に、政臣の瞳に宿っていた光は、もはやかつての死んだような虚無の色ではなかった。
胸元の内ポケットには、あの静まり返った竹林の夜、謎めいた旅衣の男――ミカヅキから手渡された三枚の短冊が、吸い付くように静かに収まっている。布とも紙ともつかぬその奇妙な手触りは、肌を伝ってかすかな温もりを放ち、凍りついていた政臣の心臓の動きをしっかりと支えていた。
東京という巨大な修羅の街に戻った政臣を待ち受けていたのは、想像を絶する冷酷な現実だった。
自宅マンションはすでに差し押さえられ、私財のすべてが裁判所の執行官によって競売にかけられていた。かつて彼の名刺一枚でいくらでも動いた銀行や信金は、彼の顔を見るやいなや冷徹な拒絶の壁を作り上げ、窓口の担当者たちは腫れ物に触るような、あるいは底辺の人間を見るような軽蔑の眼差しを投げつけた。
身内に等しいと信じ込んでいた共同経営者の副社長は、会社の海外口座からすべての資金をきれいに抜き去ったまま海外の高跳びを決め込み、警察も「契約上の複雑なスキームに絡むトラブルであり、刑事事件としての立件には時間がかかる」と腰が重かった。
残されたのは、数億円という個人の連帯保証債務と、支払期限の迫った無数の手形、そしてかつて彼のもとで働いていた社員や下請け業者たちの怒りと絶望の矛先だった。
「菊池さん! あなたを信じて設備投資したんだぞ! この借金をどうしてくれる!」
「よくのうのうと戻って来られたな! 人の人生を狂わせて、お前だけが平気で息をしているのか!」
かつてのビジネス仲間たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、少しでも利害関係のあった人間は、政臣の名前を聞いただけで一斉に居留守を使った。
週刊誌や業界紙の片隅には、「転落した貿易界の寵児」「ペテン師社長のなれ果て」といった見出しが踊り、世間は彼を徹底的に社会的な死へと追い込もうとしていた。
政臣は、そのすべての罵詈雑言を身に受けて歩いた。
かつて高級外車で乗りつけていた港の倉庫街を、いまやボロボロの革靴を引きずりながら、一件一件、下請けの加工所や小さな貿易仲介業者を歩いて回った。事務所の扉を開けた瞬間、冷水を浴びせかけられることは日常茶飯事であり、時には灰皿が投げつけられ、土下座のまま数時間にわたって怒鳴り続けられることもあった。
それでも、政臣は頭を上げなかった。
(あの夜、男は言った……奇跡の金ではない。お前が己の足で立ち上がり、再び未来を掴み取るための巡りと機会だと)
ミカヅキの言葉が、脳裏で何度もリフレインする。
甘い救済などない。逃げ出したところで、自分の魂の飢えは永遠に癒えることはない。ならば、この泥をすべて飲み干し、骨の髄までしゃぶり尽くしてでも、もう一度這い上がるしかなかった。
しかし、人間の気力や根性だけでは、どうにもならない巨大な壁が立ちはだかっていた。
政臣がわずかな伝手を頼りに、古い友人から借り受けた数万円の資金を元手に、小さな雑貨の個人輸入を細々と再開しようとした時のことだった。
動き出した矢先、かつての会社を乗っ取るようにして裏で手を引いていた大手の商社関係者と、逃げた元副社長の息がかかった人間たちが、容赦ない妨害工作を仕掛けてきたのだ。
「菊池と取引するバカがいたら、うちのグループ全体のパイプをすべて断つからそのつもりでな」
その一言で、わずかに光の差しかけていた零細の輸出入業者たちは、恐れをなして次々と契約を白紙に戻した。
資本もなく、後ろ盾もなく、信用をすべて剥ぎ取られた男が、業界の巨大な圧力の前に再び叩きのめされるのに、時間はかからなかった。
すべてが完全に塞がれ、息の根を止められた夜。
政臣は、都心の片隅にある、風呂なし共同トイレの極小の木造アパートの四畳半に座り込んでいた。
暖房器具などなく、吐く息は白く凍てついている。
机の上には、明日支払わなければならない仕入れの手付金の請求書と、残された小銭がわずか数枚だけ転がっていた。
「……ここまでか……」
乾いた笑いが、自らの喉から漏れた。
やはり自分は、一度時代に選ばれ、排斥されただけのただの道化だったのだろうか。どれほど頭を下げ、どれほど泥水をすすっても、巨大な資本と悪意の前には、個人の足掻きなどただの滑稽な抵抗にすぎないのではないか。
もう一度、あの山に戻ればいいのだろうか。
あの青白い竹林に行けば、あの冷徹な男はまた自分をあざ笑うだろうか。
心がポッキリと音を立てて折れかけ、暗い絶望の底へ引きずり込まれそうになったその瞬間だった。
――ズクン、と胸元が熱を帯びた。
政臣がハッとして息を呑み、震える手でコートの内ポケットに手を差し入れる。
そこに収められていた三枚の短冊のうち、一番上に重ねられていた短冊が、ふわりと淡く、しかし確かな藍色の光を放ち始めていた。
それは熱湯のような熱さではない。
まるで冷え切った血流に春の雪解け水が染み渡るように、政臣の凝り固まった思考と、挫けかけた精神の奥底へ、凛とした静けさと強い推進力を送り込んでくるような感覚だった。
胸の動悸が整い、視界の霧が晴れていく。
(……まだだ。俺はまだ、何もやり遂げていない……!)
短冊の光がふっと消え去った直後、アパートの廊下に置かれていた、住民共同の電話機が、けたたましく鳴り響いた。
夜の十時を過ぎた時間帯の着信に、政臣は不審に思いながらも冷えた畳を蹴って受話器を取った。
「はい、菊池ですが……」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、かつて政臣がほんの数年前に、仕事の無理難題を陰ながら助けてやったことのある、地方の小さな木材加工所の老舗の親方の声だった。その声は、怒号でも冷笑でもなく、どこか苦り切った、しかし力強い響きを帯びていた。
『おい、菊池か。夜分遅くにすまねえな』
「……親方……?」
『お前が今、東京で一人であらゆる連中に頭を下げて回っているって噂を、風の噂で聞いたぜ。世間じゃお前は会社を潰した大悪党で、詐欺師の仲間だって大騒ぎだがよ……俺は昔、お前がうちの職人たちに示したあの仕事の筋の通し方を忘れちゃいねえんだ』
親方は一度鼻を鳴らし、続けて言葉を紡いだ。
『大手はどこもやお前と関わるなって脅しをかけてきやがるらしいがな、うちのような田舎の古い職人工場には、そんな東京の気取り屋どもの理屈は通用しねえんだよ。お前が昔、海外の販路を開拓してやると言って持ってきてくれたあの図面、あれをもう一度うちで形にしてみねえか? 資金も大したものは出せねえし、販路の開拓もお前が汗をかいて一から回るしかない。だが、お前が本気で這い上がる気があるなら、俺たちはもう一度、お前の最初の相棒になってやる』
その言葉を聞いた瞬間、政臣の視界が一気に涙で歪んだ。
それは、億万の富をもたらす魔法の奇跡ではない。
裏切り者の首を刎ねる復讐の力でもない。
それは、一度はすべてを失い、社会の底辺に叩き落とされた男が、もう一度だけ自分の足で立ち上がり、汗と泥にまみれながら世界へと挑むための――あまりにも尊い、最初の一歩の「巡り合わせ」だった。
「……親方……ありがとうございます……! 必ず、この借りは返します……!」
受話器を握りしめる政臣の指先が、怒りと決意に震えていた。
彼はその夜、一睡もせず事業計画の再構築を書き殴り、翌朝の早朝一番の列車に飛び乗った。
1枚目の短冊が与えたのは、安易な救済ではない。
それは、地を這い、泥をすすり、自らの手で再び明日を切り拓くための――決して折れない「再起の代価」という名の、壮絶な闘いの始まりだった。




