第6話 失った男
山肌を覆う鬱蒼とした杉林の奥深く、湿り気を帯びた冷気がどこまでも垂れ込めていた。
菊池政臣は、破れた革靴の先でぬかるんだ土を噛み締めながら、一歩を踏み出すたびに粗い息を吐き出していた。かつては人々の活気と欲望が渦巻いていた都市の喧騒は、いまや遠い記憶の底へと沈み込んでいる。彼の着ている上質なウールのスーツは泥と枯れ葉に塗れ、特注の白いシャツの袖口は破れ、黒く汚れていた。つい数ヶ月前まで、彼の手には億単位の金が動く貿易協定の契約書と、未来を約束された栄華の象徴である万年筆が握られていたはずだった。
一九九〇年代初頭。
日本中を包み込んでいた熱狂的な景気の波――狂乱のバブル経済は、まるで夢のように儚く弾け飛んだ。
政臣は三十代の若さで、海外からの高級建材や資材の輸入を手がける気鋭の貿易会社を立ち上げ、時代の波に乗って急成長を遂げさせた実業家だった。港の倉庫群に広大な敷地を確保し、都心の一等地に本社オフィスを構え、毎日のように海外からの電話や電信を取り仕切っていた。自らの才能と先見の明を疑ったことなど一度もなく、世界は自分のために回っていると信じて疑わなかった。
だが、狂乱の時代の終わりは、あまりにも残酷で、容赦のない形で訪れた。
円高の乱乱と世界的な金融不調、国内市場の急冷。追い打ちをかけたのは、実の弟のようにかわいがり、会社の経理と手形管理のすべてを任せていた副社長の裏切りだった。男は海外取引口座の資金と積み上がった莫大な信用状を悪用して裏資産を持ち逃げし、巨大な空口の手形と不渡りリスクだけを残して姿を消した。
港に留め置かれた大量の荷役資材、次々と連鎖不渡りを起こす取引先の商社、手のひらを返したように強硬な回収に走るメインバンク。そして毎日のように会社と自宅に押し寄せる取り立て屋たちの怒号。
「菊池! 金を返せ! お前が海外に飛んでも地獄の底まで追いかけてやるぞ!」
「裏切り者の偽善者め! 港の荷物もろとも海に沈めてやる!」
かつて政臣を「貿易界の期待の星」「日本の国際化を担う若き天才」と持ち上げていた者たちが、いまや飢えた狼のように彼の肉を貪ろうとしていた。破綻の処理に追われる中で、妻は幼い子を連れて実家へ逃げ帰り、絶縁状を突きつけてきた。親しかった友人たちは電話一本で露骨に居留守を使い、政臣の周りからは蜘蛛の子を散らすように人が消えていった。
すべてを失った。
築き上げた貿易の王国も、長年かけて培った信用も、守るべき家族も、自分という人間の存在価値そのものも。
政臣に残されたのは、自分の背丈を遥かに超える莫大な借金の山と、身一つで逃げ出してきたという惨めな現実だけだった。あてもなく乗った長距離列車を降り、あてもなく歩き続け、気がつけば山道の行き止まりまでやってきていた。車道は途切れ、人の気配など微塵もない山林の深くへ、吸い込まれるように足を踏み入れたのだった。
「なぜだ……俺が、何をしたというんだ……」
震える声が、誰にも届くことなく冷たい霧の中に消えていく。
政臣は足をもつれさせ、ぬかるんだ土の上に倒れ込んだ。膝と肘を泥に突き、荒い息をつく。爪の間に黒い土が入り込み、皮膚の感覚が寒さで麻痺していく。あんなにも誇らしかった自尊心は粉々に砕け散り、胸の中にはただ、焼け付くような空虚さと怒り、そしてどうしようもない絶望だけが渦巻いていた。
世界中を飛び回り、誰よりも努力してここまで登り詰めたはずだった。時代の潮流を読み、危険を冒して勝負をかけ、世界との橋渡しをしてきたはずだった。なのに、なぜ一瞬の足踏みで自分だけがすべてを奪われ、不浄の虫ケラのように捨てられなければならないのか。
「死ねば……楽になれるのか……」
ポケットの中に忍ばせていたのは、僅かな小銭と、かつて最初の貿易船を出航させた記念に作った金のカフスボタンだけだった。世間は自分を笑うだろう。破滅した愚かな貿易商が、山で野犬のように死んだと。だが、もうこの世に戻る場所などどこにもなかった。明日を迎えるための気力も、立ち上がるための理由も、彼の心からは綺麗さっぱり削ぎ落とされていた。
まぶたが重くなり、寒さがじんわりと心地よい麻酔のように全身を包み込み始める。このまま静かに目をつむれば、あの苛烈な取り立ての怒号も、哀れみの視線も、すべて忘れて無になれる。そう思って息を潜めた時だった。
ふと、暗闇の奥から、言葉にならない不思議な気配が漂ってきた。
杉やヒノキの生い茂る黒々とした木立の隙間から、青白い、繊細な光が漏れていたのだ。それは、港の灯台のような鋭い光でもなければ、都会のネオンのような毒々しい光でもない。どこか透き通るように清らかで、しかしぞっとするほど冷たい、不思議な光だった。
(なんだ……あれは……)
凍えかけた脳の片隅で、わずかに好奇心が芽生えた。死を前にした人間の見る幻覚だろうか。それとも、自分を迎えに来た冥府の灯火だろうか。政臣は泥まみれの身体を起こし、這うようにして光の差す方向へと進み始めた。木の枝が頬を切り、服を割いていくが、もはや痛みすら感じなかった。
雑木林をかき分けて開けた場所に出た瞬間、政臣は息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、周囲の湿った雑木林とは明らかに雰囲気を異にする、小さな竹林だった。そして、その中央に佇む一本の若竹が――自ら柔らかな光を放っていた。
青白く、脈打つように強弱を繰り返すその光は、まるで竹そのものが意思を持って息をしているかのようだった。周囲の空気はピンと張り詰め、冷気の中に、どこか遠い異国の海よりも深く清らかな香りが満ちている。
「竹が……光っている……?」
政臣は呆然と呟き、引き寄せられるようにしてその竹へと一歩を踏み出した。合理的な貿易実務と数値計算だけで生きてきた彼にとって、それはあまりにも非現実的な光景だった。だが、いまの彼にとって、その青白い光は不思議と恐ろしいものではなかった。むしろ、自分と同じように、この世界の片隅で深く孤立しているかのような寂寥感を、その光の中に感じ取ったからかもしれない。
政臣はひざまずき、震える手を伸ばした。
指先が、脈動する青白い竹の表面にそっと触れる。




