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月を喰む夜に、君を娶る  作者: 冬馬美沙
第1章 月の罪と千年の始まり
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第5話 帰還と千年の誓い

 満月の夜、地上の静寂は不吉なほど澄み渡っていた。


 かつて静まり返っていた竹林の周りには、地上でかぐやを慈しみ育てた養父母と、彼女の美しさに魅せられた多くの武者たちが武装して取り囲んでいた。弓を番え、刃を抜き、天を仰ぐ彼らの表情には必死の形相が浮かんでいる。娘を奪わせはしないという人間の執念が、夜の空気を重く湿らせていた。


 だが、竹林の深い影の底からその光景を見つめていたミカヅキは、知っていた。

 人間の力など、月の理の前にはあまりにも儚く、無力であることを。


 突如として、夜空の雲が真っ二つに裂けた。

 月を背にして降りてきたのは、まばゆい白銀の光を纏った飛雲と、そこに居並ぶ無数の月の使者たちであった。その中心に立つのは、冷徹な仮面のごとき面持ちをした裁定者・ツクヨ。彼らが発する神聖にして冷酷な圧力が地上へと降り注ぐと、弓を構えていた武者たちは指一本動かせなくなり、剣は手から滑り落ちた。養父母たちは涙を流しながらも、その場に伏し倒れることしかできなかった。


 あまりにも圧倒的な、世界の理の差。

 屋敷の縁側から足を踏み出したかぐやは、そんな人間たちの姿を見つめ、胸を痛めるように哀しげな眼差しを注いだ。


 彼女の肩には、月の使者が差し出した白銀の羽衣がかけられようとしていた。

 その羽衣を纏えば、地上で育んだ人間としての温かな記憶、愛おしさ、悲しみ、喜び――「情」と呼ばれるすべての感情が消え去り、彼女は再び無垢で冷たい「月の姫」へと戻ってしまう。


 「カグヤ」

 ツクヨの声が、一切の感情を排して頭上から響く。

 「お前は地上という獄で人の情を知り、贖罪を果たした。穢れは削ぎ落とされ、いまや神聖なる月へと還る資格を取り戻した。羽衣を纏い、都へ還るのだ」


 かぐやは震える手で羽衣に触れた。

彼女の瞳から、ポロポロと透明な雫が溢れ落ちる。地上で泣くことを覚え、愛することを知った証としての涙。


「……私は、この温かな地を忘れたくはありません」

かぐやは泣き濡れた声で呟いた。

「老いて死にゆく人々も、傷つきながら生きる日々も、すべてが愛おしかった。この想いを消し去ってしまうというのですか」


「それは不必要な毒だ。お前が月で不変を生きるために、削ぎ落とさねばならぬ『過去』に過ぎん」


ツクヨの無情な宣告とともに、羽衣が彼女の滑らかな肩を包み込んだ。

その瞬間、かぐやの瞳から涙が途絶えた。瞳に宿っていた熱や、揺らぐような人間らしい光が、潮が引くようにスーッと消えていく。深みのある黒曜石のようだった眼差しは、再び冷たく静かな、底の知れない無の輝きへと塗り替えられていった。


(姫様――)


竹林の闇の中、身を隠していたミカヅキの胸が、引き裂かれるような激痛に苛まれた。

彼は固く拳を握り締め、爪が手に食い込んで血が滲むのすら気づかないほど、その光景を食い入るように見つめていた。


羽衣を纏ったかぐやは、まるで感情のない完璧な白磁の人形のように、ゆったりと空へと浮き上がっていく。

地上で慈しんでくれた老父母の叫びも、彼女の耳にはもう届いていないようだった。彼女の視線はただまっすぐに、遥か頭上に輝く清廉な月の都へと向けられている。


だが――空へ昇りゆくまさにその途中、かぐやはふと、何かに惹かれるようにして地上の一点へと視線を落とした。


そこは、誰も気づかない鬱蒼とした竹林の陰。

煤けた黒衣を纏い、人々の絶望を買い取る短冊を握り締めたまま、不老不死の罰を背負って立ち尽くす男――ミカヅキのいる場所だった。


記憶は消えていたはずだった。

護衛であった彼の名も、共に月を逃れようとした夜のことも、彼が自分に捧げてくれた深い情愛の記憶すらも、羽衣の力によってすべて白紙に戻されていたはずだった。


なのに。

かぐやの唇が、ほんの微かに、理由もなく震えた。

その黒い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、理を超えた切ない揺らぎが走った。


(……あ……)


ミカヅキは息を呑んだ。

視線が交差した、わずか一瞬の永遠。

言葉すら交わすことは許されず、触れ合うことも叶わない。彼女は自分を覚えておらず、自分はただ永遠に彼女を失い続ける運命にある。


それでも、男は悟った。

彼女の魂の最も深い底には、あの千年前の誓いが、忘れ得ぬ痕跡として残されているのだと。


「かぐや姫」を乗せた白銀の雲は、夜空の裂け目へと静かに吸い込まれ、やがて光の柱とともに消え去った。

後には、静まり返った竹林と、伏して泣き叫ぶ養父母たちの声だけが残された。


雲が閉じ、月光が再び冷ややかに地上を照らし出す。

使者たちも、姫も、すべては都へと還っていった。救われたのは彼女だけであり、この地上に取り残されたのは、ただ罰を背負った自分ひとり。


ミカヅキは竹林の中からゆっくりと歩み出た。

彼の手には、一枚の藍色の短冊が握られている。


『あなたと共に生きたい』


かつて自分の胸の中にだけ生まれ、決して短冊に記すことも、叶えることも許されなかった己の願い。

他人のどんな不可能な願いも叶えてやりながら、自分のこのたった一つの想いだけは、千年の闇の中に打ち捨てられ続ける。


「……私は、生き続けます、姫様」


ミカヅキは夜空に浮かぶ孤高の月を見上げ、深く、静かに言葉を紡いだ。


「あなたが月へ還り、感情を失ったとしても。私がこの地上で千年の時を彷徨い、人々の絶望を買い叩く悪魔となろうとも……私はあなたを忘れない。どれほど世界が移ろい、形を変えようとも、いつの日か必ず、あなたを再び私の手で解き放ってみせる」


男の目から、一滴の血のような涙が伝い落ち、土へと染み込んでいった。


ここから、彼の途方もない旅が始まる。

平安の世から、鎌倉、室町、戦国、江戸、そして明治、大正、昭和――いくつもの時代が移り変わり、文明が芽吹き、滅びゆく歴史の裏側で、不老不死の男は短冊を手に闇を歩き続けた。


すべては、千年の時を超えて、再び巡り会う「現代」という宿命の舞台のために。


月に奪われた愛しい人を、もう一度地上へ引きずり下ろし、その手を取るその日まで。

男の長き夜は、終わりを告げることなく静かに始まっていた。


第1章 月の罪と千年の始まり<完>

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