第4話 竹の姫
蒼い星へと堕ちた魂は、記憶のすべてを霧の底へと沈め、ただ無垢な赤子として泥と緑の溢れる大地に産み落とされた。
その夜、深い山奥の竹林に、月光とは異なる青白い奇妙な光が満ちた。
子宝に恵まれず、ひっそりと暮らしていた老夫婦がその光の源へと導かれるように分け入ると、そこには瑞々しい若竹の根元に抱かれるようにして、まるで星の雫を固めたかのような赤子が眠っていた。赤子の額には、ほんのりと月の名残を思わせる淡い白銀の光が宿り、その黒髪は夜の闇をそのまますくい取ったかのように深い色をたたえていた。
「お前……これは、神様が授けてくださった宝物に違いないよ……」
老人は震える手で赤子を抱き上げ、老婆はその小さな温もりを胸に抱きしめて涙を流した。
月の都では決して味わうことのできなかった、人間たちの泥臭くも切実な愛と温もりが、最初の世界の記憶としてカグヤの小さな体に染み込んでいく。
月を追放された彼女は、記憶を失い、ただ「かぐや」という名を与えられて人間の娘として育てられることになった。
時は流れ、少女は驚異的な早さで美しく成長していった。
その姿を一目見た者は、誰しもが言葉を失った。村の若者たちは彼女に心を奪われ、遠方から数多の貴族や富豪が求婚の品を持って門を叩いた。だが、彼女の瞳の奥には、いつもどこか遠くを見つめるような、言い知れぬ空虚さが潜んでいた。
自分はどこから来て、何を見上げているのだろうか。美しい衣を纏い、富に囲まれても、夜ごと縁側に座り込んで空の満ち欠けを見つめる彼女の胸には、名状しがたき寂寥感が波打っていた。
そして、その姿を――ほんの一歩も近づくことを許されず、遥か遠くの暗がりから見つめ続ける男がいた。
三日月朔夜。それが、地上に降り立ったミカヅキに与えられた名であり、生き方だった。
ツクヨから言い渡された罰は、彼からすべての自由を剥ぎ取っていた。
不老不死の体を持ったまま、人間の世を彷徨い、絶望の淵にある者たちの「願い」を叶え続けること。その代わり、自分自身が抱くたった一つの願い――「あの人の傍にいたい、抱きしめたい」という望みだけは、どれほど血を流そうとも決して叶わない。
ミカヅキは己の内に宿る異能の力を用いて、夜闇の街や深く暗い路地裏で、生きる希望を失った人間たちの前に現れた。
彼の手に握られているのは、深みのある藍色と白銀の糸で紡がれた、不思議な光沢を放つ小さな「短冊」だった。
「お前の絶望と引き換えに、この短冊に望みを書き記すがいい。どんな不可能な願いであれ、代償と引き換えに叶えてやろう」
病に倒れた我が子を救いたいと泣き叫ぶ親。裏切りによってすべてを失い仇討ちを誓う男。貧困の極みで明日をも知れぬ命を救ってくれと乞う娘。
ミカヅキは短冊を差し出し、そこに血や涙で認められた願いを次々と引き取った。短冊に文字が刻まれるたび、ミカヅキの理の力が働き、奇跡が現実を塗り替えていく。
願いが成就した人間たちは狂喜し、彼を神のごとく崇め、あるいは悪魔と恐れた。
だが、短冊を通じて他人の切実な業や望みを叶え続けるたび、ミカヅキの心は摩耗し、冷酷な過酷さだけが残っていった。他人の望む幸福を幾千と叶えてやりながら、己の最も欲するたった一つの願いだけは絶対に届かないという地獄。
鬱蒼とした竹林の陰。月の光が届かない深い闇の中で、短冊を抱えたミカヅキは身じろぎもせず、人間たちの里に建てられた屋敷の窓明かりを見つめていた。
彼が纏う衣は、月の白銀ではなく、長き旅路の中で煤けた黒と灰色の旅衣だった。その瞳の色も、かつての透き通るような白銀から、夜の深淵のような闇色へと変貌を遂げている。
それでも。
かぐやが笑う時、その微かな風の音が遠くから届くたびに、短冊を引き取ることで擦り切れたはずの胸の奥が、激しく、痛切に疼くのだった。
「……姫様」
誰にも届かない声で呟きながら、ミカヅキは決して彼女の前に姿を現さなかった。
短冊を与える使者として人間界を裏から巡る己の身を恥じ、何より自分が近づけば彼女が人間として得ようとしている平穏を壊してしまうと知っていたからだ。
彼に許されたのは、短冊を手に闇を彷徨いながら、ただ遠くから彼女の生きる気配を感じ取ることだけだった。
彼女が野山を駆け、風に髪を揺らし、時に理由もなく涙を流すその一瞬一瞬を、影法師のように見守り続けることだけが、千年の罰を生きる男の唯一の救いであり、同時に終わりのない拷問だった。
だが、穏やかで美しい日々は、永遠には続かなかった。
里の人々に愛され、地上での「情」を深く学んでいくかぐやの美しさは、やがて地上という狭い枠組みを超え、再び虚空の彼方へとその波長を響かせるようになっていた。
ある夜、庭先で夜空を見上げるかぐやの背後に、ふと不気味なほどの神聖な気配が忍び寄った。
それは、月の冷たさ。
地上の空気が凍りつき、星々の瞬きが一瞬にしてかき消されるような、圧倒的なまでの「迎え」の兆しだった。
闇の中に潜んでいたミカヅキの身体が、緊張でこわばった。
彼の背筋を冷たいものが駆け抜ける。
かぐやが地上で過ごした歳月は、彼女の罪を清め、月の理における「贖罪」を完了させるには十分すぎるほどだった。人間として生き、喜びを知り、そして愛おしさを知った彼女の魂は、もはや最初の純白の冷たさではなく、温かな業の光を帯びていた。
だからこそ、月の都は彼女を放置しない。
かつて彼女を追放した裁定者たちの手が、再びこの地上へと伸びようとしていた。
竹林の奥から見つめるミカヅキの前で、夜空の雲が裂け、月よりもなお眩い白銀の光の柱が、かぐやの屋敷へと静かに降り注ぎ始めた。




