第3話 裁き
宮殿の最奥にある境界の裂け目へと踏み出そうとしたその瞬間、冷徹な気配が周囲の空気を一瞬で凍りつかせた。
「――そこまでだ、カグヤ。そしてミカヅキ」
空間が歪み、音もなく現れたのは、淡い灰色の長袍を纏った男――裁定者ツクヨだった。
その背後には、冷ややかな仮面をつけた幾人もの月の使者たちが、隙なく回廊を塞ぐように控えている。ツクヨの瞳には怒りすらなかった。ただ、規則を外れた歯車を直すかのような、機械的な冷酷さだけが湛えられている。
「地上の穢れに心を奪われ、禁忌を犯して逃亡しようとは。……愚か極まりない」
ミカヅキは即座に一歩踏み出し、カグヤを背中に庇うようにして立ち塞がった。
「ツクヨ様! 咎めるのならば私めを処断してください。姫様はただ……」
「庇うな、ミカヅキ。お前のその行為こそが、お前自身もすでに穢れに侵されている動かぬ証拠だ」
ツクヨは冷たく遮ると、ゆっくりと手をかざした。
その合図とともに、使者たちが持っていた拘束の光が放たれ、二人の手足を容赦なく縛り上げた。
抵抗する間もなく、ミカヅキとカグヤは白磁の床に引きずり出され、月の法廷の中央へと膝をつかされた。
「月の法に基づき、今よりふたりの罪に対する裁定を下す」
ツクヨの宣告が、静寂に満ちた空間に重く響いた。
「まず、月の規律を捨て、地上の不浄に身を委ねようとしたカグヤ。お前の罪は重い。だが、その魂の根底にある迷妄を断つため、ただの処罰では不十分である」
カグヤは顔を上げ、怯むことなくツクヨを真っ直ぐに見据えた。
「……私に、どのような罰を」
「地上へ追放する。お前を『罪人』としてあの不浄の星へ落とす」
ツクヨの言葉に、使者たちの間からわずかなざわめきが起きた。追放は月の都における最も重い罰だった。
「地上で人間として生まれ変わり、老いと病、愛憎の苦しみの中に身を置くがいい。記憶を封じられ、泥にまみれ、一人の儚い人間として生き絶えるのだ。……だが」
ツクヨは一拍置き、冷徹に言い放った。
「その汚濁の果てに、人々の悲哀を救い、まことの『情の尊さ』を証明してみせよ。もしそれが果たされたなら――いつの日か、月への帰還を許そう」
それは罰でありながら、同時に贖罪を果たせば救われるという、かすかな「条件付きの光」が残された裁定だった。
カグヤは小さく息を呑み、そして静かにうなずいた。
「……承知いたしました。たとえどのような苦難が待っていようとも、私は私の選んだ生を生き抜いてみせます」
続いて、ツクヨの冷ややかな視線が、ミカヅキへと向けられた。
「そして、ミカヅキ。お前の罪は、カグヤのそれよりもさらに重い。姫を正しい理へと導くべき護衛でありながら、自らも私情に溺れ、禁忌への加担を企てた」
「いかなるお咎めも、甘んじて受け入れます」
ミカヅキは微動だにせず、深々と頭を垂れた。
カグヤが地上へ赴き、いつか還る道が与えられたのなら、自分にどんな死が与えられようと構わなかった。彼女の盾になれたのなら、それで十分だと本気で思っていた。
だが、ツクヨの口から告げられたのは、死よりも遥かに残酷な宣告だった。
「お前には死も、地上での転生も許さん。不老不死のまま地上へ堕ち、絶望した人間の『願い』を叶え続ける僕となれ」
「……なに……?」
「人の業と絶望を買い取り、他者の願いを叶え続けよ。……ただし、お前自身が望むたった一つの願い――カグヤと共に生き、愛されるという望みだけは、永久に叶うことはない」
心臓を冷たい氷の刃で貫かれたような衝撃が、ミカヅキの全身を駆け巡った。
「カグヤが地上で罪を清め、月へ還るその日まで。あるいはお前がその終わりのない旅路に擦り切れ、存在そのものが消滅するまで、決して報われぬ救済の旅を続けるがいい」
それは、カグヤには「帰還の希望」が残されているのに対し、ミカヅキには「決して叶わない欲望を抱えたまま、他者を救い続ける」という、終わりのない精神的拷問そのものだった。
「お待ちください、ツクヨ様! ミカヅキはただ私を……私を守ろうとしただけです! 罰するのならば私をひとりで……!」
カグヤが縛られた身を必死に起こし、叫声を上げた。その瞳から、止めどなく涙が溢れ落ちていく。
「彼を巻き込まないでください! お願いです、ツクヨ様……!」
だが、ツクヨは冷たく首を横に振った。
「裁定は下された。覆ることはない」
ツクヨが大きく手を振ると、二人の足元の空間が激しく音を立てて裂け始めた。
白磁の床が粉々に砕け散り、その下に広がる底知れぬ漆黒の闇と、遥か下方で禍々しくも美しく輝く「蒼い星」の光が、むき出しの牙のように二人を呑み込もうと波打つ。
「さらばだ、罪人たちよ。地上という名の獄で、自らの選んだ『情』の重さに溺れるがいい」
強烈な引力が二人を引き剥がし、身体が宙へと浮き上がる。
次元の裂け目へと落ちていく中、ミカヅキは縛られた腕を必死に伸ばし、カグヤの手を掴もうと指を絡ませた。
「姫様……!」
「ミカヅキ……! 行かないで、いや、離れないで……!」
吹き荒れる狂おしい風の中で、カグヤの指先が、すうっとミカヅキの手から滑り落ちていく。
彼女の姿が、そして月の記憶が、地上のまばゆい光の中に溶けるように小さくなっていく。
激しい落下の衝撃が意識を白く染め上げる中、ミカヅキは遠ざかる彼女の気配に向かって、心の中で強く、狂おしく誓った。
たとえどれほど永い時が流れようとも。
どれほど自分の心が絶望と孤独に摩耗し尽くそうとも。
自分は必ずやこの地上で生き抜き、いつの日か、もう一度あなたを見つけ出す。
二人の罪人は、引き裂かれるようにして、蒼い不浄の星へと墜ちていった。




