第2話 禁じられた願い
その日を境にして、月の都に澱む静寂は、まるで微かに亀裂の入ったガラス細工のようになってしまった。
白磁の庭園は相変わらず無風であり、時間の流れそのものが存在しないかのように平穏を保っている。空には雲ひとつなく、星も瞬かない。ただ、見上げる虚空の向こう側に、いつだってあの蒼青の星――地上と呼ばれる不浄の玉座だけが、禍々しくも美しい青い光を放って回っている。
その完璧な空間の中で、カグヤの佇まいは日を追うごとに変化していった。
彼女の瞳が捉えるものは、もはや宮殿の幾何学的な美しさでもなければ、周囲を固める無機質な装飾品でもない。彼女の視線は常に、遥か頭上の虚空に浮かぶ、あの星へと吸い寄せられていた。
あそこには何があるのだろうか、と。
言葉にしなくとも、その背中が、わずかに揺れる黒髪の動きが、すべてを物語っていた。
「姫様、夜気が冷えてまいります。そろそろお部屋にお戻りになられては」
ミカヅキは、いつものように一歩踏み出し、静かに声をかけた。
だが、カグヤはすぐに振り返らなかった。彼女は氷の縁に両手をかけ、まるで遠くの音楽を聴き取るかのように、じっと下界を見つめたままでいた。
「ミカヅキ。あなたは、あちらの世界の音を聞いたことがありますか」
「音、でございますか」
ええ、とカグヤは小さく頷いた。
「この月の都には、風の声も、生きものたちの息吹もありません。聞こえるのは、私たち自身の規則正しい足音と、石畳を渡る冷たい反響だけ。けれど、あの星を見ていると……不思議と、何かがざわめく音が聞こえるのです。それは決して静かではなく、時に激しく、時に泣き叫ぶような、けれど確かな『生』のざわめきです」
その言葉を聞いた瞬間、ミカヅキの胸の奥が微かに疼いた。
月の都の住人にとって、そのような情緒的な感傷はすべて「穢れ」とみなされる。心に波風を立てることは、永遠の均衡を崩す毒にほかならない。カグヤ自身、それが都の掟においてどれほど重い禁忌であるかを理解していながら、あえてその毒に身を浸すように、毎日を過ごしていた。
「地上は、あなた様が思われるような美しい楽園ではありません」
ミカヅキは自らの職務を全うするため、あえて冷徹な現実を口にした。
「あそこにあるのは、永遠ではなく刹那です。花は咲いてもすぐに枯れ、人は生まれてもわずか数十年のうちに老い、病に倒れ、死んでいく。争いが絶えず、誰もが傷つきながら、明日すら見えない暗闇の中を手探りで歩いている……そんな、救いのない世界です」
ミカヅキの言葉に、カグヤはゆっくりと首を巡らせた。
その双眸に宿る光を見て、男はハッとした。そこには怯えも迷いもなく、ただ圧倒的なまでの憧憬と、静かな決意が満ちていたからだ。
「だからこそ、ではないのですか」
カグヤの声音は震えていなかった。むしろ、これまで聞いたどの声よりも澄み切っていた。
「ただ同じ形のままで、無限の時間を繰り返し生きることに、何の価値があるというのでしょう。失うことがないのなら、何かを手に入れた時の喜びも分からない。終わりのない時間に縛られるくらいなら、たとえほんのわずかな一瞬であっても……燃え盛るように生き、そして灰になる方が、私は美しいと思います」
「姫様……!」
「ミカヅキ、あなたは怖くはありませんか?」
カグヤが一歩、ミカヅキへと歩み寄った。その距離があまりにも近かったため、白銀の甲冑の隙間から、彼女の纏うかすかな体温――月の者にはあり得ないはずの、微かな温もりを感じたような気がした。
「この永遠という名の檻の中で、ただ形骸として朽ちていくことが、あなたには怖くないのですか」
問いかけに対する答えを、ミカヅキは持っていなかった。
彼はただのカグヤの護衛であり、彼女を守るための道具として作られ、配置された存在にすぎない。自分の意思など最初から不要であり、月の理に従うことだけが彼のすべてだったはずだ。
なのに、いま目の前にいる少女の切実な瞳を見ていると、自分が今まで信じてきた「正しさ」のほうが、まるで空虚な砂の城のように崩れていくのを感じた。
彼女をこの鳥籠に縛り付けているのは、他でもない自分たち月の理なのだ。
もし彼女が本当にあの地上へ行きたいと望むなら、自分は護衛として彼女を引き止めるべきなのか、それとも――。
その日から、宮殿の空気は目に見えて緊迫していった。
裁定者であるツクヨの影が、あちこちの回廊で見え隠れするようになった。カグヤの「揺らぎ」がすでに許容の限界を超えていること、そして彼女を処分、あるいは厳重な隔離措置に処すための議論が水面下で始まっていることは、側近であるミカヅキの耳にも嫌でも届いていた。
時間がなかった。
このままでは、カグヤは完全に自由を奪われ、その心まで永久に凍りつかされてしまう。
そして、運命の夜は訪れた。
月の都の時間が最も深く沈み、すべての光が冷たい青に染まる刻限。
ミカヅキが自室の床に膝をつき、瞑想を装いながら神経を尖らせていた時、微かな衣擦れの音が闇を揺らした。
立ち上がり、扉を開ける。
そこに立っていたのは、いつもの白銀の正装ではなく、地上の夜の闇をそのまま映し出したような深い藍色の薄衣を纏ったカグヤだった。その髪は下ろされ、月の光を受けて艶やかに光っている。手には、都のどこにも存在しないはずの、地上の草花をかたどった小さな飾りが握られていた。
「……姫様」
呼ぶ声が、わずかに掠れた。
カグヤは少しも驚いた様子を見せず、むしろ穏やかな笑みを浮かべて首を振った。
「今夜なのだと、私の心が告げているのです」
彼女の瞳はまっすぐにミカヅキを捉えていた。
「いまを逃せば、私は二度と自分を取り戻すことができなくなる。あの星へ行くのです。たとえ、どのような罰が待ち受けていようとも」
ミカヅキの全身を、冷たい戦慄が駆け抜けた。
ここで大声を上げ、ツクヨを呼べばすべてが終わる。カグヤは保護され、再びあの凍てついた庭園に戻され、二度と外の世界を夢見ることは許されなくなるだろう。それが最善の選択であり、自分に課された絶対の義務であることは、頭では分かっていた。
だが、その義務を果たすことが、なぜこれほどまでに残酷で、耐え難い苦痛に感じられるのか。
「私を、あちらへお連れください」
カグヤは静かに、しかし力強く言った。
「あなたならば、私の護衛であるならば、この宮殿の裏手にある境界の裂け目への道をご存知のはずです。私を止めるのではなく……どうか、私の道を開いてください」
それは願いではなく、懇願だった。
気高く、誰にも媚びることのなかった月の姫が、今、一人の男の前に自らの運命を預けようとしていた。
ミカヅキは息が詰まるような感覚に襲われた。
ここで彼女を拒絶すれば、彼女の魂は永遠に死んでしまう。だが、彼女の願いを受け入れ、地上への道を開けば、自分たちは月の掟に対する最大の罪人となる。待ち受けているのは、想像を絶する過酷な断罪にほかならなかった。
それでも。
ミカヅキの中で、最後の理性が音を立てて崩れ去った。
彼女が流すかもしれない涙を、彼女が抱くかもしれない歓喜を、この手で守りたいと思ってしまったのだ。護衛としてではなく、一人の男として、彼女の選んだ未来に寄り添いたいと願ってしまった。
ミカヅキは深く息を吸い込み、そして静かに膝をついた。
「……承知いたしました」
その一言に、カグヤの瞳が驚愕と、そして言葉にできないほどの歓喜の光に濡れた。
「姫様。地上へ下りることは、この清らかな都を捨て、罪人として墜ちることを意味します。二度と戻れぬかもしれない。それでも、行かれますか」
「ええ。何度でも言うわ。私は、あの星へ行く」
ミカヅキは立ち上がり、剣の柄に手を添えた。
「ならば参りましょう。あなた様が望むのならば、この命に代えても、その願いをお支えいたします」
二人は夜の闇に紛れ、誰も足を踏み入れない宮殿の最奥へと歩み出した。
背後で、月の都の冷徹な管理システムが異変を察知し、微かな警報の光を明滅させ始めている。だが、もはや引き返すことはできなかった。
禁忌の扉の向こうで、蒼い星の光が手招きするように渦巻いている。
カグヤの切実な願いと、ミカヅキの選んだ破滅の道が、いま静かに交差しようとしていた。




