第1話 月の都
そこには、風すらなかった。
白磁の石畳がどこまでも平坦に広がり、その遥か頭上には、幾何学的な尖塔を無数にいただく宮殿が静かに佇んでいる。
天を仰いでも、流れる雲もなければ、季節を告げる太陽の眩みもない。あるのはただ、吸い込まれるように深く、底の知れない漆黒の虚空と、そこに浮かぶ蒼青の大きな玉――地上と呼ばれる世界だけであった。
月の都。
そこは、生もなければ死もない、永遠の停滞と完璧な秩序に満たされた世界。
白銀の衣を纏った男――ミカヅキは、宮殿の回廊の影に音もなく立ち、一歩先にある庭園の縁側に腰を下ろすひとりの少女を見つめていた。
カグヤ。
この月の都でただひとり、異彩を放つ姫であった。
都の住人たちの髪は、誰もが透き通るような白銀か、光を反射しない無機質な灰色をしている。だが、彼女の髪だけは違っていた。夜の闇をそのまま束ねたような深い漆黒。光の加減によって、まるで地上の海のように深緑や濃藍の色彩を微かに覗かせる。
「……また、あちらをご覧ですか、姫様」
ミカヅキがそっと声をかけると、カグヤはゆるやかに首を振って振り返った。
その瞳もまた、都には存在しない、柔らかな漆黒だ。都の住人たちが持つ冷ややかな氷の色の瞳とは違い、そこには微かな「揺らぎ」が存在していた。
「ミカヅキ」
カグヤの鈴を転がすような声が、静寂に満ちた回廊に響く。
ミカヅキは一歩前へ進み、彼女の斜め後ろにそっと跪いた。身に纏う白銀の甲冑と薄絹が、擦れる音すら立てずに収まる。彼はカグヤの護衛であり、また彼女の身の回りを世話する従者であった。
「都の光が、今日はお嫌いですか」
「嫌い、というわけではないのです。ただ……ここには、何もないから」
カグヤの眼差しは、再び遥か下方に浮かぶ蒼い星へと向けられた。
月の都には、感情の起伏というものが存在しない。
怒りも、悲しみも、激しい歓喜すらも、この都では「穢れ」であり「不純」とされた。すべては完璧な理のもとで保たれ、住人たちは永遠の時を変わらぬ姿で過ごす。何かが生まれ出ることもなければ、何かが失われて絶滅することもない。
しかし、カグヤだけは違った。
彼女は時折、理由もなく胸を押さえて溜息をつき、誰も見向きもしない地上の星を何刻も眺め続けるのだった。
「ミカヅキ。あそこに見える青は、何なのですか」
「水、と呼ばれるものだそうです。地上を満たし、形を変えて空から降り、やがて海へと還る……流動するものだと聞き及んでおります」
「流動する……とどまらない、ということですね。ここでは、水もまた固まり、姿を変えることはないのに」
カグヤは細く美しい指先を伸ばし、庭園に配置された氷の池の縁に触れた。
鏡のように滑らかな水面は、千年前から一滴の波紋すら立てていない。永久に凍りついたままの静寂。それが月の都の美しさであり、正しさであった。
「あちらの世界には、緑があり、赤があり、見たこともない色彩が満ちているのでしょうね。……ミカヅキ、あなたは地上に行ってみたいと思ったことはありませんか?」
その問いに、ミカヅキは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
月の護衛として育てられた彼にとって、掟を破り、地上に興味を持つなど万死に値する禁忌であった。もし他の裁定者や使者がこの会話を聞いていれば、即座に「穢れ」として正審にかけられるだろう。
だが、ミカヅキは静かに首を横に振った。
「私が望むのは、ただ姫様のお側にあることだけです。姫様が月におられるなら、ここが私のすべてでございます」
偽りのない本心だった。
ミカヅキにとって、冷たく乾いたこの都の全てはどうでもよかった。ただ、この気高く美しく、そしてどこか壊れてしまいそうなほど儚い姫を静かに見守ること――それだけが、彼の無味乾燥な永遠の中に存在する唯一の色彩だった。
「……あなたは、優しいのね」
カグヤは哀しげに微笑んだ。その笑顔の渦中に浮かぶ影を、ミカヅキは見逃さなかった。
彼女は誰のものでもなかった。どの高貴な月の貴族が求婚しようとも、彼女の心が動くことはなく、ただ誰にも触れられぬ高嶺の花としてそこに佇んでいた。
その時、静寂を切り裂くように、重厚な足音が回廊の奥から響いてきた。
影の中から現れたのは、淡い灰色の長袍を纏った男――ツクヨであった。
月の掟と裁定を司る者。その顔には一切の感情が削ぎ落とされており、まるで精密に作られた石像のようだった。
「――また地上の穢れを注視しているのか、カグヤ」
ツクヨの声には、温もりも冷酷さすらもない。ただ事実を指摘するだけの平板な響きがあった。
ミカヅキは即座に立ち上がり、カグヤとツクヨの間に割って入るようにして深々と頭を下げた。
「ツクヨ様。姫様はただ、庭園の景観を眺めていらっしゃっただけにございます」
「庇うな、ミカヅキ。お前の役割は姫の護衛であり、その不純な思考を増長させることではない」
ツクヨの冷ややかな視線が、ミカヅキを通り抜けてカグヤへと注がれる。
「カグヤ。お前の中に芽生えつつある『揺らぎ』は、都の調和を乱す。地上は死と生者が引き蠢く、浅ましく汚汚しい世界だ。執着、愛憎、老い、そして滅び……そこに魅力を感じるなど、狂気以外の何物でもない」
「……狂気、でしょうか」
カグヤは静かに立ち上がった。その佇まいは気高く、ツクヨの威圧にも一切屈していなかった。
「満ちては欠け、形を変え、やがて消えていく。その儚さを愛おしいと感じることが、罪だというのですか」
「罪だ」
ツクヨは即答した。容赦のない、断定であった。
「不変こそが至高であり、完全だ。変化を望む心こそが、魂を腐敗させる『毒』なのだから。……ミカヅキ、姫を自室へお連れしろ。これ以上、外の気配に晒すことは許さん」
「……謹んで、拝命いたします」
ミカヅキは頭を下げ続けた。
ツクヨが立ち去り、足音が完全に遠のいた後も、庭園には重苦しい沈黙が残された。
カグヤは自室へと続く回廊を歩き出し、ミカヅキはその一歩後ろを静かに従った。
絹の衣が揺れるかすかな音だけが響く。彼女の背中は小さく、そしてこの広大な都のどこにいても独りであるかのように寂しげだった。
「ミカヅキ」
「はい」
「ツクヨの言う通り、あの星は毒なのでしょうか」
自室の扉の前で立ち止まり、カグヤは振り返った。
その目には、先ほどツクヨに向けた毅然とした態度とは裏腹に、深い迷いと戸惑いが滲んでいた。
「形あるものが崩れ、去っていく場所。そこに住む人々は、明日をも知れぬ命を抱えて、どのような心地で生きているのでしょう。……怖くは、ないのでしょうか」
「私には……分かりかねます。ですが、失うものがあるからこそ、人は何かを強く求めるのではないか、と」
ミカヅキの言葉に、カグヤの瞳が一瞬、大きく揺れた。
「失うからこそ、求める……」
カグヤは自らの胸にそっと手を当てた。そこには、都の者には決して鳴ることのない、熱い動悸のようなものが宿っているようだった。
彼女は部屋の奥へと足を踏み入れ、最後に一度だけ、ミカヅキの方を振り返った。
その表情は、どこか諦念に似た美しさを孕んでおり、ミカヅキの胸を激しく締め付けた。
彼女は呟いた。
「地上には――終わりがあるのでしょう?」
引き止めようと伸ばしかけたミカヅキの手は、空を切って静かに下ろされた。
終わりがある。
だからこそ、美しいのだと。
カグヤの瞳がそう語っていたことを、ミカヅキは悟ってしまった。
そしてその呟きこそが、千年に及ぶ壮大な悲劇と、逃れられぬ運命の引き金であることを、この時の男はまだ知る由もなかった。




