第40話 願い
静まり返った深い竹林の中、雨上がりの澄み渡った夜空に浮かぶ満月が、青白く清廉な光を降り注いでいた。
美月から譲り受けた、残り二枚の藍色の短冊。
三日月朔夜は、泥と涙で汚れた彼女の手から渡されたその小さな紙片を両手で包み込んだまま、微動だにできず立ち尽くしていた。
千年。
平安の世から始まり、この現代に至るまで。彼は不老不死という逃げ場のない身体で暗闇の地上を漂い、数え切れないほどの人間たちの切実な絶望と引き換えに、短冊に記された無数の欲望や悲願を叶え続けてきた。
病苦からの解放、戦の勝利、富貴栄華、途方もない名声、愛する者の蘇生――人間たちは己の都合で彼を求め、短冊に願いを託しては、用が済めば彼を異形として恐れて去っていった。
しかし、彼自身が自分自身の願いを持つことだけは、裁定者ツクヨの冷酷な判決によって一度たりとも許されなかった。己の幸せを願うことすら、彼にとっては存在を否定されるほどの重い罪であり、激しい苦痛を伴う「許されぬ業」として心に刻み込まれていたのだ。
「……私の……願い……」
ミカヅキの掠れた声が、風のない竹林の静寂に落ちた。
何を書けばいいのか、分からない。
千年の長きにわたり、己の望みを抱くことそのものを強固に封印され続けてきた男にとって、自分自身のために何かを望むという行為は、あまりにも未知であり、あまりにも恐ろしい戸惑いだった。
短冊の上に添えた指先が、かすかに、だが激しく震える。
立ち尽くすミカヅキの胸の奥底で、千年間沈殿していた深い記憶の澱が、静かに波打ち始めた。
頭上に輝く月を見上げた、その一瞬。
遥か千年の彼方、決して忘れることの許されなかった遠い記憶の光景が、鮮やかに蘇る。
月の都の無機質な宮殿。
生も死もなく、変化すら存在しない完全なる永遠の檻の中で、一人静かに悲しげな眼差しで『地上』を見つめていた高貴な姫――カグヤ。
『……ミカヅキ。地上には、終わりがあるのでしょう?』
かつて彼女が、切なげに零したあの言葉。
護衛としての冷徹な理性を保とうとしていた当時のミカヅキには、彼女の言葉の意味がどうしても理解できなかった。
なぜ、不変で神聖な月の都の安寧を捨ててまで、終わりを持つ世界に憧れるのか。なぜ、老い、傷つき、苦しみ、別れ、やがて死にゆく儚い地上という地獄を望むのか。
だが、今なら分かる。
千年の闇を漂い、人の情と絶望を見つめ続け、そして何より菊池美月というひとりの女性と巡り会い、その情熱と優しさに触れた今なら、痛いほどに理解できる。
終わりがあるからこそ、人は限られた時間の中で誰かを狂おしいほどに愛し、今日という一日を、この瞬間を何よりも愛おしく、大切に生きるのだと。
変化のない不老不死は、救いなどではない。永遠の停滞であり、残酷な孤立でしかなかったのだと。
「……私は……解き放たれたい」
ミカヅキは静かに短冊へ願いを込めた。
白銀の光を帯びた糸が、藍色の短冊は美しく輝く。
『永遠の命から解放されたい、限りある人生を生きたい』
書き終えたその瞬間、二枚目の短冊がまばゆい青白い光を放ち、弾けるように光の粒子となって夜空へと舞い上がった。
その瞬間、ミカヅキの全存在を千年間縛り続けていた重く冷たい鎖が、音を立てて解け散る強烈な感覚が駆け抜けた。
身体の奥底に滞留していた不老不死の異能の力がスーッと衰え、代わりに血管の隅々にまで「人としての血の通うぬくもり」が満ちていく。
竹林を満たしていた月の理の奇跡の光が静かに揺らめき、己の身体に「終わり」という名の尊い生の刻印が宿ったことを、不老の男は初めて実感したのだった。
手元に残された、最後の、たった一枚の短冊。
ミカヅキはしばらくの間、呼吸すら忘れたような深い沈黙の中に身を置いた。
倒産寸前の菊池貿易を救った祖父・政臣との出会い。
政臣の死後、遺言によって余儀なくされた、美月との五 年間の「契約結婚」。
一度も思いが通じ合うことなく、冷たいすれ違いと遠慮のまま重ねてきた、離れでの日々。
一枚の離婚届を残して去った、静かな別れ。
そして、冷たい雨の夜、泥と涙に塗れながら、己の全存在をかけて自分を求め、叫んでくれた、今この瞬間での再会。
そのすべての記憶が、胸の中で激しい熱となって込み上げてくる。
自分には望む資格などないと思い込んでいた。
自分のような不吉な影が、彼女の眩しい光に寄り添ってはいけないと諦めていた。
だが、彼女は言ったのだ。「三日月朔夜というあなた自身に、私と生きてほしい」と。
ミカヅキは意を決し、震える唇で最後の短冊にゆっくりと願いを発した。
『僕と結婚してください』
『今度は五年と言わずに』
ミカヅキは溢れそうになる息を呑み、短冊の変化をじっと待った。
だが――。
短冊は光らなかった。
青白い奇跡の光も、空間を揺らす理の波動も、何も起きない。
ただ、雨上がりの静かな夜風にさらさらと揺れる一枚の紙として、彼の手の中に静かに残されているだけだった。
「……光りません」
ミカヅキは少し驚いたように、漆黒の目を大きく見開いて呟いた。
千年の間、どんな不可能な願望をも代償と引き換えに現実へと変えてきた奇跡の短冊が、最後の願いに対してだけは、何の反応も示さない。
その途惑う姿を見ていた美月は、目から大きな涙の粒をポロポロとこぼしながら、ふっと温かく、愛おしそうに笑った。
彼女は泥で汚れた手でミカヅキに寄り添うように近づき、彼の手から光らない短冊をそっと、包み込むように受け取った。
「当然です……そんな願い」
美月はその短冊を、自分の胸の真ん中にしっかりと抱きしめた。
「短冊で叶えるものじゃないでしょう」
ミカヅキは言葉を失い、息を呑んで彼女を見つめた。
「これは、月に願うことじゃないわ」
美月はさらに一歩、彼へと近づいた。
泥の匂いと、雨上がりの冷気と、互いの熱い息遣いが混ざり合う。
千年の時を超えて、二人の距離が、完全にゼロになる。
「私が、応えることです」
涙を溢れさせながら、美月はまっすぐにミカヅキの深く澄んだ眼差しを見上げた。
「はい」
明確で、揺らぎのない決意を込めて、彼女は答えた。
「この人生が終わる日まで……一緒にいます」
「……あなたが入れたハーブティーが、飲みたいです」
その瞬間。
千年を孤独に生き抜いた男の瞳から、ぽろぽろと一筋の透明な涙が溢れ落ちた。
千年の間、誰かのために奇跡を起こし続け、決して己の望みを抱くことすら許されなかった男の「願い」。
それは神の奇跡でも、月の理の短冊でもなく――彼を愛するたった一人の人間の、その温かな一言によって、叶えられたのだ。
竹林を包んでいた神秘的な月の光は、静かに、そして穏やかに消えていった。
願いを叶える竹も、異能の短冊も、すべてはその役割を終え、ただの静かな夜の森へと戻っていく。
もう、奇跡も、短冊も、不老の異形も必要なかった。
祖父の遺言から始まった「契約」による結婚。
守る者と、守られる者という歪んだ関係。
そのすべてを終わりにして。
今、二人は自分自身の意思で、ひとりの男とひとりの女として、互いを選び取ったのだ。
ミカヅキは、そっと美月の濡れた手を取り、力強く握りしめた。
その手のひらから伝わってくるのは、温かく、確かな人間の脈動と鼓動。
自分にも、いつか終わりの日が来る。
彼女にも、いつか終わりの日が来る。
限りある命だからこそ、これから重ね合わせていく一日一日が、この瞬間が、息が止まるほどに愛おしい。
千年にわたって他人の願いを叶え続けた男は、最後にようやく、己の本当の願いを知った。
そしてその願いは、天空の月ではなく、地上で出会った愛する人の真実の手によって、温かく叶えられた。




