第41話 エピローグ:千年の残照
あの夜から、数ヶ月の月日が流れた。
菊池家の本邸に隣接する古い離れ。かつては冷たい沈黙と静寂だけが支配し、美月が「置物」と呼んだ男が息を潜めて暮らしていたその場所に、今や柔らかく温かな朝の光が惜しみなく差し込んでいた。
離れの庭に作られた小さなハーブ園では、ローズマリーやカモミール、ミントの緑が爽やかな香りを周囲に漂わせている。微風が揺らす葉の音はどこまでも穏やかで、かつてこの場所を包んでいた重苦しい陰惨さや、千年の孤高を感じさせる気配は微塵も残っていなかった。
「……美月さん、お茶が入ったよ」
台所から聞こえてきたのは、少しだけ低く、けれど以前のような底知れぬ寂しさを完全に削ぎ落とした、実に穏やかな男の声だった。
縁側に腰掛け、ひざの上で会社から持ち帰った書類に目を通していた菊池美月は、書類から視線を上げて柔らかく破顔した。
「ありがとう、朔夜さん」
今は「菊池朔夜」として新たな戸籍を得て、一人の人間として美月の傍らに立つ男が、湯気の立ち上る磁器のカップを二つ、手作りの木製トレーに乗せて静かに運んできた。
かつて美月が一口もつけずに、冷たい言葉とともにシンクへ捨てた、あのハーブティー。
今、美月はそのカップを慈しむように両手で包み込み、深く息を吸い込んだ。ミントの清涼感とカモミールの優しい甘い香りが胸いっぱいに満ちていき、冷えがちな身体を芯から温めていく。
「……本当に美味しいわ。やっぱり、あなたが淹れてくれるお茶が一番ね」
「それは良かった。あなたが毎日嬉しそうに飲んでくれることが、今の私の何よりの喜びであり、幸せだからね」
ミカヅキは美月のすぐ隣に腰掛け、目元を和ませて優しく微笑んだ。
彼の肌には、かつてのような不気味なほど透明で無機質な白さはなく、日々の暮らしの中でかすかに陽に焼け、表情の動きに合わせて人間らしい微かな陰影が生まれていた。
不老不死の力も、短冊の奇跡もすべて失った彼は、今や朝になれば心地よい眠気を感じ、時に腹を空かせ、転べば痛みに眉をひそめる、ごく普通の「人間」だった。
先月、庭のハーブの手入れをしている際に、彼が小さなハサミで指先を軽く切ってしまい、赤い血が滲み出たことがあった。
慌てて手当てをしようとした美月の前で、彼は傷口を見つめたまま、ボロポロと大きな涙を流して笑ったのだ。
『私にも、赤い血が流れている。終わりがあるのだ』と。
その涙は、千年の孤独から完全に解き放たれ、生を掴み取った男の誇り高き歓喜の涙だった。
「今日は取締役会だったね」
「ええ。重役たちも最初はあなたの復帰や、突然の『正式な夫』としての存在に驚いていたけれど……今じゃすっかりあなたの真摯で緻密な仕事ぶりに毒気を抜かれているわ。社長の『夫』として、これ以上頼もしいビジネスのパートナーはいないって、専務まで大絶賛していたのよ」
美月は可笑しそうに笑いながら、ミカヅキの逞しい肩へとそっと頭を預けた。
薄手のシャツ越しに伝わってくるのは、温かく力強い彼の体温と、規則正しく刻まれる心臓の鼓動。
もう、誰かの絶望を受け取る短冊も、彼を縛り付ける月の理も、自分たちを形だけで繋いでいた歪んだ契約の書類も存在しない。
互いの意思で互いを選び、互いの限界ある一度きりの命を愛おしみながら歩む、ありふれた、けれど何よりも尊く愛おしい日常がここにあった。
「ねえ、朔夜さん。今夜は月が綺麗ですって。久しぶりに夜空を見上げてみない?」
美月の問いかけに、ミカヅキは包み込むような温かな手で美月の細い手指をそっと握り締め、どこまでも力強く答えた。
「ああ、見上げよう。もう……月を見上げても、私の胸が悲しみで痛むことはないからね」
「どうして?」
「私の真実の光は、空の上ではなく、今、こうして私の隣にあるのだから」
美月はミカヅキの横顔を見つめてそっと微笑み、彼の肩に寄り添った。
――そして、地上の穏やかで温かな時間が流れる、遥か彼方。
夜空の最果て、人間たちの与かり知らぬ天空の果てに存在する、冷たく不変なる「月の都」。
そこは生も死もなく、老いも成長もなく、ただ完璧で無機質な永遠だけが漂う世界。
その月宮の静寂に包まれた庭園にて、一切の感情を羽衣によって奪われ、無垢な白磁の人形として冷たい時を生き続けている高貴な姫――カグヤは、ふと佇んでいた。
風もないはずの月の都に、すうっと一筋の温かな風が吹き抜ける。
どこからともなく飛来したひとひらの光。それは、青白い粒子を撒き散らしながら、カグヤの差し出した細い指先へとひらひらと舞い降りた。
「……これは……?」
カグヤは首を傾げ、滑らかな指先でその紙片を受け取った。
それは、地上でミカヅキが最後にその胸に抱いていた、あの藍色と白銀の糸で編まれた最後の短冊であった。
短冊はさらさらと眩い光の粒子となって空気の中に解け始め、夜空の空間にひとつの美しい光の投影を映し出した。
そこに映し出されていたのは――。
泥と雨に塗れた地上で、一人の人間の女性と固く手を握り合い、涙を流しながら「人間として生きていく」決意を交わすミカヅキの姿。
そして、柔らかな陽の光が降り注ぐ庭先で、その女性と並んでハーブティーを飲み、心からの穏やかな笑顔を浮かべた姿であった。
限りある人間としての生を手に入れ、自らの意思で真実の伴侶を娶った男の幸福な姿。
それを見た瞬間。
羽衣の力によって久しく失われていたはずのカグヤの胸の奥底で、固く凍りついていた何かが、パチンと音を立てて弾けた。
(……ミカヅキ……)
千年の間、彼を縛り続けていた重い罪と罰が消え去り、彼が地上で自らの真実の願いを叶えたのだということが、言葉や理を超えてカグヤの心にまっすぐに届いていた。
カグヤの胸を千年間締め付けていた深い罪悪感と悲哀が、春の淡雪のようにすうっと溶けていく。
氷のように冷たかった彼女の黒い瞳から、ぽろりと一筋の透明で温かな涙が零れ落ち、頬を伝って月宮の床へと弾けた。
「……よかった……本当に、よかった……」
感情を取り戻したカグヤは、溢れる涙をぬぐうこともせず、静かに、けれど心から美しく微笑んだ。
地上で愛する人と歩み始めた元護衛の未来と幸せを、そして千年の残照が温かな朝の光へと変わったことを祝福するように、彼女は地上に向けてそっと、永遠の祈りを捧げるのだった。
<第4章 千年の残照 完>




