↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月を喰む夜に、君を娶る  作者: 冬馬美沙
第4章 千年の残照
PR
39/41

第39話 再会

 青白く発光する一本の若竹を中心に、竹林全体へとなめらかな光の波が広がっていった。


 先ほどまでの激しい土砂降りが嘘のように静まり返り、夜空の雲がすうっと払われていく。満月に近いまばゆい月光が、濡れた竹の葉を一滴残らず照らし出し、銀色の雫となって地面へこぼれ落ちていた。


 美月は泥の中に膝をついたまま、濡れた髪を振り払い、眼前の光景を凝視した。


 青白い光の束が激しく揺らめき、竹の根元から静かに立ち上る。風もないのに揺れる竹葉の擦れ合う音が、まるで鈴を転がすような神聖な清涼さを帯びて響き渡る。その音色は、美月の冷え切った耳奥を優しく揺らし、荒んでいた身体の奥底に微かな熱を灯していくようだった。


 光の渦の中から、ひとつの影がゆっくりと形を結んでいった。


 煤けた黒衣を纏い、深遠な夜の暗闇をそのまま瞳に宿した男。

 千年の時を不老不死のまま漂い、人々の絶望と引き換えに短冊で願いを叶え続けてきた男――三日月朔夜が、そこに佇んでいた。


 「……三日月……さん……」


美月の声が震えた。

夢ではない。目の前に、確かに彼がいる。

最後に離れで見せた冷たい寂しげな横顔ではなく、千年の孤独をそのまま背負ったかのような、あまりにも清廉で哀しい眼差しを自分に向けている。


雨上がりの冷気が二人の隙間を埋めていたが、彼がそこに立っているという現実だけで、美月の胸の奥ははち切れんばかりに打ち震えていた。


ミカヅキは静かに美月を見つめていた。

その手には、藍色と白銀の糸で編まれた、あの神秘的な光沢を放つ三枚の「短冊」が握られている。


「……なぜ、ここへ来たんだ、美月さん」


ミカヅキの声が、夜の静寂に低く染み渡った。

そこには怒りも困惑もなく、ただ静かな諦念と、彼女を気遣う痛々しいまでの温もりが混ざり合っていた。


「私はあなたに離婚届を残し、菊池家とのすべての縁を絶ったはずだ。あなたはもう、契約という縛りから解き放たれた。菊池貿易の社長として、己の人生を自由に歩むべきだ……。これ以上、私のような影に関わってはなりません」


「違うわ……! 全然違う……!」


美月は泥で汚れた膝を押し立て、震える脚で立ち上がった。

冷たい雨に打たれ続け、体温は奪われ、全身の節々が痛むように激しく震えていたが、その瞳にはかつてないほどの強い光と熱が宿っていた。


「私は、契約のためにここへ来たんじゃない! おじい様の遺言のためでも、会社のためでもないわ! あなたに会いたかった……ただそれだけのために、ここへ来たの!」


一歩、泥を踏みしめて彼へと近づく。

ミカヅキの瞳が微かに揺れた。彼は戸惑うようにわずかに身を引こうとしたが、美月のまっすぐな眼差しから目を逸らすことができなかった。


「あなたはずっと、影の中で私を守り続けてくれた……。何ひとつ求めず、何ひとつ口にせず……『自分には望むことなど何もない』なんて寂しい顔をして、自分は幸せになってはいけないと思い詰めたまま!」


美月は涙で濡れた顔を拭うこともせず、ミカヅキの手元にある三枚の短冊を見つめた。


「月の裁定者に課された罰……『他者の願いを叶え続け、己の望みだけは永久に叶わない』という千年の呪縛。私、おじい様の手紙を読んで、すべての真実を知ったわ」


ミカヅキの身体が小さく強張った。

彼の黒い瞳に、隠し続けてきた千年の傷跡が露わになる。その深い闇の奥底には、誰にも見せることのなかった絶望と悔恨の歴史が折り重なっていた。


「……知ってしまったのか。ならば、理解していただけるはずだ。私に近づいてはならない。私は人に寄り添うことを許されぬ異形であり、あなたの人生に光をもたらすことのない闇そのものなのだ。私と共にあれば、あなたもまたその暗闇に呑み込まれてしまう」


「そんなの、誰が決めたのよ!」


美月は叫んだ。

竹林に彼女の悲痛で強靭な声がこだまする。雨を吸った泥を足元で踏み締めながら、己の全存在をかけるようにして彼に言葉をぶつけた。


「わたしもその短冊をください。あなたが自分の願いを言えないのなら……あなたが千年の間、自分を罰し続けてきたのなら……今度は、私がその短冊に願うわ!」


美月はミカヅキの前まで歩み寄り、彼の手の中にある短冊をまっすぐに見つめた。


「三日月さん。その短冊は、どんな不可能な願いでも叶えるのでしょう? ならば、私の『一つ目の願い』を聞き入れなさい」


ミカヅキは呼吸を止め、息を呑んだ。


美月は彼の瞳をまっすぐに見つめ、一言一言を胸の奥から絞り出すように、溢れ出る涙とともに告げた。


「一つ目の願い……それは、あなたが誰かの絶望を引き取り、誰かの願いを叶え続けなければならないという、その残酷な呪縛から解放されることです」


「美月さん……なにを……」


「もう十分よ! 千年も……千年も他人のために傷つき、自分の心を殺して生きてきたじゃない! これ以上、誰かの道具として生きないで! それが私の、最初で最大の願いよ!」


美月の言葉が放たれた瞬間、ミカヅキの手元にあった一番上の藍色の短冊が、まばゆい青白き光を放ち、さらさらと空気の中に溶けるように消失していった。


理の力が発動し、彼を千年の間縛り続けていた「短冊の契り」の第一の鎖が、音を立てて弾け飛ぶ。


ミカヅキは自分の手を見つめ、驚愕に目を見張った。胸の奥を重く締め付けていた冷たい鉄の重圧が、確かにひとつ削ぎ落とされたのを感じたのだ。全身を巡る異能の気配が揺らぎ、見えない枷がひとつ打ち砕かれたことを身体が理解していた。


「……なぜだ……。なぜ、己の富や、菊池貿易の不滅や、己の平穏を願わない……? 私の持つ奇跡の力を、なぜ私自身のために使うのですか……」


ミカヅキの声がかすかに震えていた。

千年間、何千何万という人間が彼に願いを乞うてきた。不老不死、富貴栄華、愛する者の蘇生、敵の抹殺――人間たちは皆、己の貪欲な欲望と深い絶望を短冊にぶつけてきたのだった。


彼という存在そのものの救いを願った人間など、千年の歴史の中で、ただの一人も存在しなかった。誰もが彼を願いを叶える「都合のいい奇跡の道具」として扱い、去っていったのだ。


美月は涙を流しながら、柔らかく、温かな笑みを浮かべた。

そして、彼の手に残された二枚の短冊を指差し、静かに言った。


「そして……二つ目と三つ目の願いだけど。私はこれを使わないわ」


「……使わない……?」


「そうよ」


美月はミカヅキの手を、両手でそっと包み込んだ。

彼女の手は雨に打たれて冷え切っていたが、その手のひらから伝わってくる温もりと真っ直ぐな鼓動は、何よりも強く、熱かった。


「残りの二つの望みは……あなたにあげる」


「……私に……?」


「ええ。あなたが千年の間、一度も抱くことを許されなかった『あなたの願い』のために、この短冊を使いなさい」


美月は力強く、まっすぐに告げた。


「他人のためじゃない。月の掟のためでもない。三日月朔夜というあなたが、あなた自身のために望むことを、そこに願いなさい」


ミカヅキは言葉を失い、ただ固まった。


己の願い。

千年間、忘れることを強要され、抱くことすら最大の罰とされた、自分自身の望み。


美月から手渡されたその温もりの中で、止まっていた時間が、今、静かに、そして激しく動こうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。