第37話 竹林
東京の喧騒を遠く離れ、車を走らせること数時間。
車窓の景色はアスファルトの街並みから深い緑の山々へと変わり、やがて人工の灯りが一切届かない、漆黒の山道へと差し掛かっていた。
菊池美月はハンドルを握りしめ、かつて祖父・政臣が命の淵で奇跡に出会い、そして三日月朔夜という男の存在を知ったというあの深い山へと車を走らせていた。
山道は夜の闇に深く沈み、車のヘッドライトだけが頼りだった。
エンジン音が夜の静寂にこだまし、フロントガラスに打ちつける落ち葉がカサカサと乾いた音を立てる。
車を安全な場所に止め、美月はドアを開けて外へと飛び出した。
「……冷たい……」
標高が高い山中の夜気は、肌を刺すように冷たかった。
しかし、美月はコートの襟をきゅっと合わせるだけで、寒さに怯むことなく生い茂る木々の間へと足を踏み入れた。足元は湿った土と落ち葉で滑りやすかったが、彼女の足取りに迷いはなかった。
祖父の手紙に記されていた場所。
千年の孤独を生きる男が、人々の絶望を短冊で引き取り、ひっそりと佇んでいたというその場所――竹林へ。
木々がざわめき、夜風がまるで彼女を拒絶するかのように強く吹き抜ける。
懐中電灯の微かな光を頼りに薄暗い林をかき分けていくと、視界が開け、周囲の空気が一瞬にして変わるのを感じた。
そこには、月光を浴びて青白く、静かに波打つ無数の竹が生い茂っていた。
「ここだわ……」
美月の胸が高鳴った。
千年の昔、かぐや姫が月へ還り、そしてミカヅキがたった一人で絶望の誓いを立てた場所。
そして、祖父が人生のどん底で、あの不老不死の男と邂逅を果たした場所。
美月は竹林の中心へと歩み寄り、冷たい地面にひざまずいた。
そして、胸に抱いていたあの最後の手紙と、二人の結婚の証であった指輪を取り出し、両手でしっかりと包み込んだ。
「三日月さん……! どこにいるの……? 私よ、美月よ……!」
美月の叫び声が、静まり返った竹林の夜空に吸い込まれていく。
だが、返ってくるのは葉擦れの音だけだった。
あたりを見回しても、そこに月を纏う黒衣の男の姿はない。あるのはただ、どこまでも冷たく、無機質な竹の群れだけだった。
(どうして……? ここに来れば、彼に会えると思ったのに……!)
美月は立ち上がり、一本一本の竹の幹に触れ、その根元を探した。
しかし、竹はただ静かにそこに立っているだけで、伝説のように光を放つこともなければ、奇跡の気配を纏うこともない。ただの、どこにでもある深い山の竹林だった。
焦りと不安が、冷たい夜風とともに美月の心を揺さぶる。
彼女は何度もその山に通い詰めた。
仕事を終えると夜の高速を飛ばし、深夜の静まり返った竹林へ足を運び、彼を探し続けた。
夜通し竹林に佇み、名前を呼び続け、彼が残した言葉や、共に過ごしたわずかな日々の記憶を思い返した。
だが、いくら待っても、何度足を運んでも、竹が青く輝くことはなく、彼の姿が闇から現れることもなかった。
(足りないの……? 私の想いが、まだ足りないというの……?)
何日目かの夜、竹林の冷たい石の上に一人座り込みながら、美月は自問自答していた。
なぜ自分がこれほど必死に彼を求めているのか。
その答えを、彼女はまだ自分の言葉で完全に咀嚼しきれていなかった。
自分が彼を探すのは、祖父の遺言を全うするためだろうか。
それとも、自分が彼に酷い態度を取り続けたことへの償いだろうか。
あるいは、会社を支えてくれた恩人として、ただ礼を言いたいだけなのだろうか。
――会いたい理由が、会社のためでも、祖父のためでも、償いのためでもないと、まだ自分でも言い切れない。
頭の中で、様々な感情が複雑に絡み合い、音を立ててすれ違っていく。
もし自分が彼を求めている理由が、単なる罪悪感や、孤独を埋めるための身勝手な執着なのだとしたら、彼のような深い痛みを抱えた男が自分に戻ってきてくれるはずがない。
彼は千年の間、他人のために願いを叶え続け、自分の幸福をすべて殺してきたのだ。
そんな彼に対して、自分が差し出せるものは何なのだろうか。
「分からない……私には、分からないわ……」
美月の目から、疲労と絶望にじんだ涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
連日の寝不足と、精神的な重圧、そして何より彼に会えないという焦燥感が、彼女の細い体を内側から蝕み始めていた。
そして、その日は訪れた。
冷たい雨が、前触れもなく夜の山を襲ったのだ。
細かな霧雨から始まったそれは、あっという間に激しい土砂降りと変わり、容赦なく美月の体を濡らし、コートの布地を重く冷たく染め上げていった。
傘を持っていなかった美月は、雨に打たれながら竹林の中に立ち尽くしていた。
冷たい雨水が髪を伝い、顔を伝い、視界を塞ぐ。
足元の土は泥に変わり、ヒールの足が深く沈み込んでいく。
「うっ……寒……っ……」
震えが止まらない。
体温が急速に奪われ、手足の感覚が麻痺していくのが分かる。
雨音にかき消され、自分の声すら自分に届かない。
誰もいない、助けも来ない深い山の真夜中。
冷たい雨に打たれながら、美月はたった一人でぽつんと立ち尽くしていた。
(私、ここで何をしているんだろう……)
ふと、そんな弱音が頭をよぎった。
会社を背負い、気丈に振る舞い続けてきたはずの自分が、こんな暗い山の中で、誰も知らないまま凍え死んでしまうかもしれない。
そんな恐怖と、報われない悲しみが一気に押し寄せてくる。
心が音を立てて軋み、限界を超えようとしていた。
(もう、無理かもしれない……私じゃ、あの人の千年の闇には届かない……)
膝の力が抜け、崩れ落ちそうになる。
雨粒が激しく地面を叩く音が、まるで自分の心を打ち砕く足音のように響いていた。
とうとう心が折れそうになるその極限の闇の中で、美月の意識は激しい冷たさと孤独の底へと沈みかけていった。




