第36話 失ったもの
菊池本邸の玄関扉が、重い音を立てて夜の静寂の中に開放された。
冷たい秋夜の風が、涙で濡れた菊池美月の頬を容赦なく打ちつける。美月は立ち止まることなく、本邸の石畳の階段を駆け下りた。
離れの部屋には、先ほどまで自分が座っていた場所に手紙の束と離婚届が残されているはずだった。だが、美月はもうそこへ戻るつもりはなかった。そこに彼はいない。いくら探したところで、抜け殻のような静寂が残されているだけだということを痛いほど知っていたからだ。
「三日月さん……っ……!」
夜の住宅街を、ヒールの音を響かせて走る。
どこへ行けばいいのかも分からなかった。だが、じっとしてなどいられなかった。足を止めれば、胸の奥から押し寄せてくる巨大な後悔と罪悪感の波に呑み込まれ、息すらできなくなってしまうからだ。
街灯の蒼白い光が、夜の道路を斑に照らしている。美月は息を荒らしながら公園の縁石に手をつき、荒い息を吐き出した。
冷たい空気が肺を満たし、白く濁った息が立ち上る。
見上げれば、雲の切れ間から三日月が冷ややかな刃のように光を放っていた。
(私は……何をしていたの……?)
膝を折り、冷たいベンチに崩れ落ちるように腰掛けた美月は、己の両手を強く握りしめた。
頭の中に、彼と過ごしたこの五年間の記憶が、走馬灯のように、恐ろしいほどの鮮明さで蘇ってくる。
政臣の遺言によって余儀なくされた「契約結婚」。
若くして社長の座を継ぎ、周囲の重役や取引先からの冷視と戦っていた自分は、常に全身に棘を逆立て、誰のことも信用しようとしなかった。
そして、離れで過ごす三日月朔夜という男。
家柄も素性も分からず、ただ政臣の命によって自分の「夫」となった男を、美月は徹底的に拒絶した。
「あなたと私には何の関係もないわ。ただの契約よ。この家に住むのは自由だけど、私の人生に干渉しないで」
そう冷たく言い放った美月に対し、彼はただ静かに深々と頭を下げた。怒りも、不満も、落胆すらも見せず、ただ「承知した」とだけ呟いた彼の表情。
美月は彼を「置物」と呼んだ。
言葉を交わすこともほとんどなく、彼が何を考え、どう生きているのかに興味を持とうともしなかった。
彼が離れの庭で一人静かにハーブを手入れしていた夜。
月の光を浴びながら、遠い空を見上げていた後ろ姿。
美月はそれを「不気味」「菊池家の異物」と心の中で蔑み、彼から距離を置いた。
会社で大きなトラブルがあり、精神的に追い詰められて真夜中に帰宅した日があった。
玄関の影に静かに立ち、疲弊した自分を静かに見つめていた彼に対し、美月は八つ当たりのように暴言を吐いた。
「なにか文句でもあるの? 近寄らないでって言ったでしょう!」
彼は何も言い返さず、ただ静かに一歩身を引いた。
そして、翌朝には美月のデスクの上に、疲労回復に効くという温かいハーブティーがそっと置かれていた。
美月はそのティーカップを一瞥し、一口もつけずにそのまま給湯室のシンクへ捨てたのだ。
『あなたから貰うものなんて、何ひとつないわ』と捨て台詞を残して。
「……っ……あああ……っ!」
公園のベンチで、美月は頭を抱えて蹲った。
胸が引き裂かれそうなほどの痛みが全身を駆け巡る。
あの時、自分は「守られていた」のだ。
彼は何かを求めていたわけではない。
己の存在で美月を苦しめたくないと、己の抱える千年の闇で美月の光を濁らせたくないと、ただ息を潜め、影として自分を支え続けてくれていたのだ。
会社が幾度も倒刻の危機を乗り越えられたのも、経営基盤が奇跡的に安定したのも、すべて自分の手腕などではなかった。彼が短冊を手に、裏で菊池家を、自分を支え続けてくれていたからこそだ。
彼は何ひとつ見返りを求めなかった。
ただ、美月が会社を守り、笑って生きていることだけを己の光とし、影に徹してくれた。
それなのに、自分は。
彼がどれほど深い傷を負い、どれほど報われない絶望の中で『己の願いを持てぬ』という千年の罰に耐えていたのかも知らず、彼の手を切り捨て続けたのだ。
「私が……彼に支えられていたんだ……」
美月の瞳から、激しい涙が溢れ出た。
そして、それと同時に――胸の奥の最も深い場所で眠っていた、もうひとつの感情が激しい熱を帯びて目を覚ました。
自分がなぜ、あれほど彼に対して頑なになり、彼を意識し続けていたのか。
単なる反発や不気味さゆえではなかった。
彼の静かな眼差し。
彼が纏う、どこか寂しげで清廉な空気。
言葉はなくとも、常に自分を安全な場所から見守ってくれていた、あの圧倒的な包容力。
自分は、最初から彼に惹かれていたのだ。
頑なな鎧を纏い、傷つくことを恐れるあまり、「契約だから」「気味が悪いから」と言い訳を作って自分の心に鍵をかけ、彼に対する恋情を、愛おしさを押し殺し続けていただけだったのだ。
「私は……私は、三日月さんのことが好きだったんだわ……!」
美月は涙を拭い、夜空に浮かぶ三日月をまっすぐに見上げた。
もう逃げない。
自分の本当の気持ちをごまかさない。
彼が千年の孤独の中で己の願いを封じられ、静かに消えていこうとしているのなら――今度は自分が、彼の元へ行く。
美月は立ち上がった。
膝の震えを抑え、強く、しっかりと地面を踏み締める。
三日月朔夜が消えた場所。
彼がこの地上で、人々の絶望を引き取るために現れる場所。
祖父・政臣が昔、倒産寸前の絶望の中で彼と出会い、そして彼が姿を消したという、あの場所。
美月は迷いのない足取りで、祖父が手紙に残した深い山へと向けて、夜の街を走り出した。




