第35話 祖父の本心
静まり返った離れの部屋。美月の涙が畳の上にぽたりと落ち、政臣の古い筆跡をかすかに滲ませていた。
手紙の束の最後に挟み込まれていたのは、これまでの過去の記憶や記録とは異なり、死期を悟った一人の老経営者・菊池政臣としての、素直で切実な「本心」が綴られた別紙の便箋であった。
美月。
お前がこの手紙を開いているということは、私はもうこの世にはおらず、そしてお前と三日月殿との間に、何らかの大きな転機が訪れたのだろう。
お前にとって、私の遺言はあまりにも理不尽で、受け入れがたい呪縛だったはずだ。
「わけのわからぬ男と結婚しなければ、社長の座も、菊池家の家督も継がせない」
若いお前にとって、それは自尊心を傷つけられ、未来を奪われるような絶望的な宣告だったに違いない。お前が私を怨み、困惑したのも無理のないことだ。
だが、美月。私はお前を苦しめるためにあの遺言を残したのではない。
私は死ぬ間際まで、病床の中でただ二人のことだけを思い、悩み抜いていたのだ。
一つは、お前のことだ。
両親を早くに亡くし、誰よりも強がりで、誰よりも孤独なお前。お前は菊池貿易を守るために己の心を殺し、過剰なまでに鎧を纏って生きようとしていた。だが、一人で生きていくにはこのビジネスの世はあまりにも残酷で、お前の繊細な心はいずれ折れてしまうのではないかと心配でならなかった。
そしてもう一つは、三日月殿のことだ。
私はあの人の全貌をすべて知っているわけではない。あの人が本当はどこから来て、どれほどの果てしない時間を生きてきたのか、そのすべてを理解できたわけではないのだ。
だが、私にはこれだけは分かっていた。
あの人は、どれほど菊池家や人々を救っても、決して己の報酬や幸福を受け取ろうとはしない。
「自分には、望むことなど何もない」
私と対峙した時、あの人が見せたその静かな眼差しの奥には、人間には到底耐えられないような、底の知れない孤独と痛みが横たわっていた。まるで「自分は幸せになってはならない」という強固な戒めに自らを縛り付け、心を殺して生きているかのように。
あの人は、己の願いを口にできない。
「傍にいたい」というたった一言すら、己に課した何かのゆえに、絶対に言えない人なのだ。
だからこそ、私は病床で考え続けた。
もし私が逝き、お前が一人遺された時、あの人を「夫」としてお前の傍に置くことができたなら――。
お前は最初は反発し、あの人を突っぱねるかもしれない。だが、誰よりも繊細で優しいお前なら、いつかあの人が抱える言葉にならない孤独や静かな優しさに気づいてくれるのではないか。そして、何ひとつ望もうとしないあの人に、人の温もりを教えてやってくれるのではないか、と。
人間の勝手な浅知恵として『婚姻』という強い形を遺すことでしか、私は二人を引き合わせる術を知らなかったのだ。
美月。もしお前がこの手紙を読み、あの人の背負うものの深さに気づいてくれたのなら――どうか、あの人を責めないでやってほしい。
そしてもし、お前の心の中に、あの人に対する僅かでも愛おしさが芽生えているのなら――どうかお前のその強い光で、あの人の凍てついた時間を動かしてはくれないだろうか。
お前の幸せと、三日月殿の救いを、心より祈っている。
菊池政臣
「……おじい様……っ……!」
美月は手紙を固く胸に抱きしめ、畳に額を擦りつけるようにして声をあげて泣いた。
祖父の真意。それは会社の存続や家柄のためなどではなかった。
強がりで孤独な美月の盾となり、そして己の幸せを自ら諦め続けている不老不死の男に救いを与えるため、老いた経営者が命の最後に遺した、切実な「祈り」だったのだ。
美月は政臣が亡くなった後に始まった、あの離れでの二人の暮らしを思い返した。
政臣の手紙にある通り、自分は彼を激しく拒絶した。
「置物」だと切り捨て、彼が静かに差し出そうとしていた無言の配慮や温もりを、自分のちっぽけなプライドのために踏みにじり続けた。
(あの人は……ずっと黙って耐えていた……)
「自分には望むことなど何もない」と言い切り、美月にどれほど冷たく扱われても一度として怒らず、ただ影のように彼女を守り続けていた彼の姿。
それは拒絶ではなく、己の存在で美月を縛りたくないという、そして己の願いを口にすることを許されていない罰ゆえの、あまりにも切ない遠慮だったのだ。
「あの人は……ずっと私の隣にいてくれた……何ひとつ求めずに……っ!」
美月の胸の奥で、激しい感情の濁流が渦を巻いていた。
それは、取り返しのつかない罪悪感と後悔。そしてそれを遥かに上回る、溢れ出すような愛おしさと切なさだった。
己の願いを封じられ、千年の闇を漂い続けてきた男。
己の口からは「愛している」とも「行かないでくれ」とも言えないまま、一枚の離婚届を残して静かに姿を消してしまった夫。
「ずるいわ……三日月さん……」
美月は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
「自分から願いを言えないからって……そうやって一人で諦めて消えるなんて……そんなの、絶対に許さないわ……!」
美月の瞳から悲壮な揺らぎが消え、そこにはかつてない強靭な意志と光が宿っていた。
彼が自分の願いを口にできないのなら、自分が彼の願いを叶えてみせる。
彼が自ら幸せを諦め続けるのなら、今度は自分がその手を強く引っ張ってでも、光の中へ引きずり出して見せる。
美月は畳の上の手紙を慎重に収めると、一度も振り返ることなく離れの部屋を飛び出した。
夜の冷たい風が、涙に濡れた彼女の頬を叩く。
美月は本邸の廊下を力強く走り抜け、玄関の扉を大きく押し開けた。
頭上に浮かぶ三日月が、まるで彼女の往く道を導くかのように、蒼白く、清廉な光で夜の街を照らし出していた。
「待っていて、三日月さん……! 私はあなたを見つけ出すわ……!」
千年の時を超えて、今、一人の女性の真実の愛が、暗闇の中へと駆け出していった。




