第34話 月の罪
夜の静寂が菊池家の本邸を深く、どこまでも冷ややかに包み込んでいた。
離れの和室。行灯の橙色の光が、畳の上に広げられた古びた和紙の束を微かに揺らめかせて照らし出している。祖父・政臣が遺したその文字は、この先で明かされる途方もない真実の重みに耐えかねるかのように、かすかに、だが激しく震えていた。
菊池美月は、乱れた息を殺し、震える指先で最後の一枚の和紙を慎重に繰った。
そこに記されていたのは、三日月朔夜という男が背負う、千年の時を超えたあまりにも残酷な宿命の全貌であった。
三日月殿
貴殿が私に語ってくださった、遠い遠い昔の記憶を、私はここに最後の記録として書き留めます。
今から千年も昔、月には生も死もない、完全なる不変の秩序に満ちた都が存在しておりました。
そこに住む高貴な姫――かぐや姫は、変化もなく、終わりすらない永遠の檻の静けさに耐えかね、いつしか途切れることのない時の流れと、生と死が躍動する『地上』へと強い憧れを抱くようになったのです。
貴殿はその姫の護衛であり、最も近くで彼女を見守る従者でございました。
都の掟では、地上に興味を抱くこと、ましてや変化を望むことなど、万死に値する『穢れ』とされていました。だが、貴殿は誰よりも気高く、しかしどこか寂しげに地上を追い求める姫の切ない思いを目の当たりにするうち、護衛としての冷徹な理性を捨ててしまった。
姫の『地上へ行きたい』という切実な願いを叶えるため、貴殿は宮殿の最奥にある境界の扉を開き、都の絶対的な法に背いたのです。
しかし、裁定者と冷酷な使者たちによって二人は引き裂かれ、月の法廷においてあまりにも容赦のない裁定が下されました。
姫は記憶を封じられ、罪人として地上へ追放されることとなりました。だが姫には、地上で人の情を知り、数々の苦難の果てに贖罪を果たせば、いつの日か月へ還ることを許されるという『条件付きの光』が残されたのです。
対して、貴殿に下された罰は、死よりも遥かに残酷で、逃げ場のないものでした。
『お前には死も、地上での転生も許さん。不老不死のまま地上へ堕ち、絶望した人間の願いを叶え続ける僕となれ』
『ただし、お前自身が望むたった一つの願い――カグヤと共に生き、愛されるという望みだけは、永久に叶うことはない』
貴殿から自らの願いを抱く権利そのものを永遠に剥奪いたしました。
不老不死の体で地上へと落とされた貴殿は、夜の闇を溶かし込んだような漆黒の旅衣を纏い、人々の絶望と引き換えに願いを叶える『短冊』を手に、千年の闇を漂い始めたのです。
他人のどんな不可能な願いも、代償と引き換えに完璧に叶えてやりながら、貴殿自身の胸の中にある『あの人の傍にいたい』というたった一つの願いだけは、どれほど血を流そうとも決して叶わない。
地上で竹の姫として育ち、やがて美しく成長した彼女は、多くの人々に愛され、そして運命の満月の夜、再び天空から迎えにきた使者たちによって羽衣を纏わされました。
それは地上でのすべての記憶と『情』を消し去り、彼女を無機質な月の姫へと戻すための冷酷な儀式でした。
記憶を失い、感情を凍らせたまま月へ還っていくかぐや姫。
貴殿はその一部始終を、誰にも気づかれぬよう鬱蒼とした竹林の陰から見送りながら、冷たい眼差しを向けられたその胸の裂け目を堪え、たった一人で誓いを立てたのでした。
『あなたが月へ還り、感情を失ったとしても……私はあなたを忘れない。いつの日か必ず、あなたを再び私の手で解き放ってみせる』と。
それからの千年。
貴殿は人々の絶望を短冊で引き取りながら、たった一人の面影を追い求め、誰にも救われることのない永遠の夜を生きてこられました。
どれほど世の人々に感謝されようとも、どれほど偉大な富や名誉を築く手助けをしようとも、貴殿の心はあの竹林の暗がりの中に置き去りにされたままだったのです。
美月。もしお前がこの手紙を読んでいるのなら、知ってほしい。
お前の夫・三日月朔夜という男は、お前が想像するような冷酷な異形などではない。
千年の長きにわたり、決して叶わぬ願いを胸の奥底に縛り付けたまま、他者のためにすべてを捧げ続けている、あまりにも哀しく、あまりにも気高い人なのだということを――。
「……っ……ああ……ああっ……!」
美月の唇から、胸の奥を無理やり抉り出されるような悲鳴が零れ落ちた。
頭が痺れ、視界が白く濁るほどの途方のない真実。
千年。途切れることのない夜の闇。終わりなき漂流。
彼はただ無心で、機械的に他人の願いを叶えていたわけではなかった。
胸の中に『あなたと共に生きたい』という、絶対に叶うことの許されない思いで抱きしめたまま、誰にも救われることのない永遠の精神的拷問の中に囚われ続けていたのだ。
自分が今まで生きてきた二十数年の人生など、彼が背負ってきた途方もない孤独と、果てしない悔恨の歴史の前では、ほんの一瞬の瞬き、煤けた塵のようなものに過ぎなかった。
「そんな……そんな悲しいことが……あってたまるものですか……っ!」
美月は膝の上に置いた両手を強く、痛いほどに固く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、熱い血が滲もうとも、そんな痛みは心に広がる絶望と愛惜の激しい痛みに比べれば何でもなかった。
思い返せば、彼はいつも一人で月を見上げていた。
夜の静まり返った庭で、一人静かにハーブの手入れをしながら、冷たい月光をその身に浴びて佇んでいたあの後ろ姿。
美月はあの背中を「不気味」「不吉の象徴」と無知に蔑み、彼が差し出そうとしていた無言の温もりを、自分のちっぽけなプライドのために切り捨て続けたのだ。
彼がどれほど深い闇の中で、どれほど報われない痛みを抱えながら、それでも祖父との約束を守るために静かに自分の傍らにいてくれたのかも知らずに。
「三日月さん……三日月さん……っ……!」
美月は手紙を両手でしっかりと胸に抱き締め、誰もいない真夜中の暗闇の部屋で、声を殺すことも忘れ、ただ子供のようにしゃくりあげて泣き続けた。
自分の知らなかった、あまりにも長すぎる孤独の歴史。
どれだけ言葉を尽くしても、今の謝罪では到底埋められない千年の深い傷跡。
その圧倒的な真実の重みを知った美月は、あまりの切なさと胸を突かれるような愛情に圧倒され、ただ夜の冷たい静寂の中で震え続けることしかできなかった。




