第33話 救われた夜
静まり返った離れの部屋に、夕闇が深く垂れ込めていた。
畳の上に散らばる祖父・政臣の手紙。菊池美月は、涙で滲んだ視界の中で、さらに束の奥深くに納められていた一通の便箋を拾い上げた。
先の便箋に記されていたのは、事業に失敗した祖父が絶望の淵で出会った「人ではない者」の存在。そして、その男が自らの利のためではなく、ただ絶望する人間に生き直すための縁を与え続けているという衝撃の事実であった。
美月は震える指先で、政臣がさらに筆を重ねた続きのページを開いた。
三日月殿
貴殿と出会い、授けられた縁を支えに会社をここまで大きく成長させた後も、私の心からあの夜の光景が消えることはありませんでした。
私がどれほど富を積み上げても、世間から賞賛を浴びても、胸の奥底に残るのは「なぜ貴殿はあれほどの力を持ちながら、何ひとつ己のために望まないのか」という途方もない疑問と、背筋を凍らせるような切なさでした。
私は己の力と財を尽くし、貴殿という存在の根源を探り続けました。
全国の古い神社や寺院に伝わる異聞、古文書の断片、そして歴史の裏で人知れず姿を消した名家の記録――それらを繋ぎ合わせた時、ようやく私は恐ろしい真実に触れたのです。
貴殿がこの地上に存在するのは、慈善でも気まぐれでもない。
千年の遥か昔、決して犯してはならぬ罪を背負い、天から追放されたことに対する「終わりなき罰」なのだと。
他者の切なる願いを叶え、絶望する者に道を拓く。
一見すれば救世主のごときその行いは、貴殿にとっては自らの意志で選んだ道ではなく、そうすることによってのみ、地上に留まり続けることを許された悲しい枷だったのです。
「自分自身の願いを持たず、ただ他者の願いを映す鏡であれ」
それが、貴殿に課せられた呪縛の全貌でした。
私は激しい衝撃を受けました。
私が再起を果たし、手にしたこの富も幸福も、すべては貴殿の「永遠の孤独」という犠牲の上に成り立っていたのだと知ったからです。
貴殿は私から何の代償も受け取ろうとはしませんでした。
どれほど感謝の言葉を述べても、どれほど巨額の財を差し出そうとしても、貴殿はただ静かに微笑み、首を横に振るだけでした。
「政臣、私に報いなど必要ない。人間が明日を生きようとする姿を見ること、それだけが私の時間をわずかに満たす」
その低く澄んだ声に込められていたのは、人間に対する深い愛おしさと、決して埋まることのない途もない寂しさでした。
貴殿は、何ひとつ自分のためには望まない。
望むことすら、千年の罰によって奪われてしまっているからなのです。
私にできることは何もないのかと、私は夜も眠れずに苦悩いたしました。
命の恩人であり、歳の離れた唯一無二の親友とも呼ぶべき貴殿に、私は何ひとつ返せていない。
その焦燥の中で、私はある日、一人で静かに遊ぶ幼い美月の姿を目にいたしました。
両親を早くに亡くし、気高く、負けず嫌いで、けれど誰よりも繊細な心を持った私の孫娘。
その時、私の胸の中に、天啓のごとき思いが舞い降りたのです。
何ひとつ望むことを許されず、千年の闇を漂う貴殿の傍らに、いつか太陽のように真っ直ぐで強い光を放つあの子が寄り添うことができたなら――。
他者の願いを叶えるためだけに存在する貴殿の凍てついた刻を、あの子の情熱と愛が解かすことができるのではないか、と。
私は自らの死期が近づいていることを悟った時、迷わずあの遺言を遺しました。
美月と貴殿を、形だけの夫婦として縛り付ける不吉な約束。
世間からは狂気の遺言と蔑まれ、美月からは激しい怒りと反発を買うことを百も承知で、私は二人を合わせたのです。
三日月殿。
これは、私が貴殿に遺す最初で最後の我が侭です。
どうか、あの子の傍にいてやってください。
そしていつか、あの子の手によって、貴殿自身が『己の願い』を見つけられる日が来ることを、私は心から祈っております。
「……っ……ああ……っ……!」
美月は便箋を胸に強く抱きしめ、畳の上に突っ伏した。
激しい涙が溢れ出し、ポロポロと古い和紙を濡らしていく。
祖父が遺した「不吉な遺言」の真実。
それは、会社を守るためでも、美月を試すためでもなかった。
絶望の淵から救ってくれた親友――千年の孤独を背負うミカヅキに、人間としての温もりと幸福を取り戻してほしいという、祖父の切痛な祈りと感謝そのものだったのだ。
そしてミカヅキは、その祖父の遺志を受け入れ、美月がどれほど冷たく追い払おうとも、どれほど不気味だと虐げようとも、一度も反論することなく静かに彼女の傍らに居続けてくれた。
「手助けなんていらない」「あなたは不気味な置物だ」と追い打ちをかけるような言葉を投げつけた自分を、彼はどのような想いで見つめていたのだろうか。
自分の差し出すハーブティーを一度も受け取ろうとしなかった美月の背中を、彼はどれほど悲しい目で見つめていたのだろうか。
(私は……私はなんて酷いことを……!)
美月は声をあげて泣き続けた。
自分が「自力で勝ち取った」と誇っていたすべての瞬間の裏で、彼は祖父との約束を守り、一切の報いを望むこともなく、ただ一筋の光として美月を守り続けていたのだ。
手記の最後に記された祖父の言葉が、美月の頭の中で何度も何度も。
『彼は、何ひとつ自分のためには望まない』
「嘘よ……そんなの……惨めすぎるわ……っ!」
美月は涙を拭い、ぎゅっと拳を握りしめた。
千年の間、誰かの願いを叶えるためだけに存在し、自分の願いを持つことすら許されなかった男。
そんな男が、最後の最後に自分に残していったのは、一枚の冷たい離婚届と「今までつきあってくれて、ありがとう」という静かな感謝の言葉だけだった。
(逃がさないわ……三日月さん……!)
美月の胸の中に、途方もない後悔とともに、燃えあがるような激しい意志が芽生えていた。
彼が自分の願いを持てないのなら、自分が彼の願いになって見せる。
彼が千年の闇の中に消えようとするのなら、地球の果てまで追いかけて、その手を掴み直してみせる。
美月は立ち上がり、涙を拭うと、固い決意を込めて夜空を見上げた。
雲の切れ間から覗く三日月の光が、彼女の顔を静かに照らし出していた。




