第32話 祖父の手紙
静まり返った部屋の中に、カサリと紙が擦れ合う微かな音が響いた。
菊池美月は、畳の上に正座したまま、震える指先で手紙の束を結んでいた細い麻紐をほどいた。夕暮れの朱い光が格子窓から差し込み、黄色く変色した和紙の表面を淡く照らし出している。
一通一通、丁寧に折りたたまれた手紙。その一番下に収められていたのは、今から半世紀以上前――まだ祖父・政臣が若かりし頃の、最も古く、感情の乗った筆跡で認められた便箋であった。
美月は息を殺し、ゆっくりと紙を開いた。
そこに記されていたのは、美月の知る「偉大な経営者としての政臣」ではなく、事業に失敗し、すべてを失って極限まで追い詰められていた一人の男の凄惨な手記であった。
三日月殿
夜の深まりとともに、あの日、貴殿と出会った山道の寒さを思い出します。
秋の深まる夜のことでした。当時の私は、若気に任せて起こした事業が無残に立ち行かなくなり、信頼していた共同経営者にも裏切られ、数千万円という途方もない借金だけを背負わされて残されました。
身ぐるみ剥がされ、身寄りもなく、世間からの冷酷な蔑視と追手に追いつめられた私は、生きる気力を完全に失っておりました。
この世のすべてを呪い、自ら命を絶つ場所を求めて、私はあてもなく奥深い山中へと足を踏み入れました。
漆黒の闇の中、冷たい雨が竹林を叩きつける音だけが響いておりました。足元も見えぬまま泥に塗れ、竹の根に足をとられて転がり落ちた時、私はただ「ここで死ねば誰も気づくまい」と、冷えた土に顔をうずめて死を待っておりました。
その時でした。
風が止み、竹林の騒めきが一瞬にして途絶えたのです。
ふと顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、闇の奥深く、深く生い茂る竹林のただ一点だけが、青白く、静かに発光している光景でした。
火事の灯りでも、人工の光でもない。まるで月そのものが地上に落ちてきたかのような、清廉で、幻想的で、人を寄せ付けぬほどに美しい光でございました。
私は吸い寄せられるように、泥だらけの身体を引きずりながらその光へと向きました。
光の中心に立っていたのは、一人の男でした。
夜の闇を溶かし込んだかのような漆黒の衣装を纏い、透き通るほどに白い肌と、深く澄んだ藍色の瞳を持った男――。
それが、貴殿と私の、最初の出会いでした。
人間離れしたその佇まいを目にした瞬間、私は全身の毛穴が逆立つような強烈な戦慄を覚えました。幽霊でも、妖怪の類でもない。この世の摂理を超越した「別の領域」に存在する者であると、理屈ではなく本能が告げておりました。
貴殿は、倒れ伏す私を、哀れむでもなく、蔑むでもなく、ただどこまでも静かな瞳で見下ろしておられました。
「人間よ。死を求める足音にしては、いささか未練が重すぎる」
その声は、耳で聴くというよりも、脳の深奥へ直接染み込んでくるかのような、低く澄んだ響きを持っておりました。
私が「すべてを失った、もう生きる術がない」と泣き叫ぶと、貴殿は静かに一歩を踏み出し、こう仰いましたね。
「金も、名誉も、人の心も、形あるものはすべて移ろう。だが、お前がその命を捨てぬというなら、道を示してやろう」
貴殿が細い指先で虚空をなぞった瞬間、私は信じがたい光景を目にいたしました。
闇の中で光り輝いていた一本の太い竹が、まるで貴殿の意に応じるかのように静かに裂け、その中から溢れ出た光が、私の全身を温かく包み込んだのです。
その夜、私は知ったのです。
貴殿がこの世の理を超えた存在であり、幾千の年月を生き続ける「人ではない者」であることを――。
「……っ!?」
美月は便箋を握りしめる手にぎゅっと力を込めた。
(人ではない……者……?)
頭では理解しきれない言葉。おとぎ話や伝承の類のように聞こえる内容。しかし、厳格で現実主義者だったあの祖父が、冗談や狂気でこのような文章を残すはずがなかった。
何より、美月自身が知っているのだ。
ミカヅキという男の、隙のない立ち居振る舞い、どれほど歳月が経とうとも傷ひとつ追わず、衰えることもない完璧な容姿。そして、どのような巨大な暗雲すらも一晩で破砕してしまう、人間離れした異能の存在感を。
美月は渇いた喉を鳴らし、震える手で次のページへと目を移した。
手紙は、その夜の出来事の恐ろしい続きへと進んでいた。
三日月殿と出会ったあの嵐の夜から、私の人生は完全に塗り替えられました。
竹林の光の中で、私が「絶望の果てに死を求めていた」と告げた時、貴殿はただ静かに首を横に振られました。
「ここで命を断ったところで、お前の背負った借金も、裏切った者たちの笑い声も消えはしない。死に場所を探すのは、すべてをやり直した後でも遅くはないはずだ」
その言葉には、不思議な重みと、拒絶することのできない絶対的な導きがありました。
翌朝、私が目を覚ました時、私は山中の泥の中ではなく、麓の古い寺社の軒下に横たわっていました。手元には、一枚の奇妙な古文書と、小さな木彫りの社印、そして微かに光を放つ竹の葉が一枚置かれていただけでした。
私は藁にもすがる思いで、その古文書に記された古い商いの知恵と、示された通りに小さな商店から這い上がるための足がかりを頼りに、泥水をすするような思いで働き始めました。
不思議なことに、私が誠実に商いに向き合い、地道に信頼を積み重ねようとするたび、まるで運命の歯車が噛み合うかのように、絶妙な縁が次々と引き寄せられていったのです。
資金繰りが破綻しかけた時には、誰もが驚くような良縁の取引先が突如として現れ、会社の機密を狙う悪質な者たちは、不思議と自滅するように姿を消していきました。
それが貴殿の力によるものだったのかどうか、当時の私には確証はありませんでした。だが、私の心の中には、常にあの暗い竹林で出会った藍色の瞳の男の姿が焼き付いておりました。
十年の歳月が流れ、私はかつての小さな商店を一代で大きな貿易会社へと成長させ、世間から「やり手の実業家」ともてはやされるようになっておりました。
富も、名誉も、かつて失ったもの以上のすべてを手に入れたのです。
だが、私は一度たりとも、あの夜の恩を忘れたことはありませんでした。
事業が軌道に乗ってから、私は密かに都の北の山へと幾度も足を運びました。
しかし、あの夜のような青白い光る竹林を見つけることは二度とできませんでした。まるで幻だったかのように、山はただの静かな自然に戻っていたのです。
それでも、私は諦めませんでした。京都の古寺を巡り、歴史の裏に隠された神隠しや、人の世の理から外れた存在についての古い伝承を調べ上げ、ようやく一つの事実に行き着きました。
貴殿は――三日月殿は、千年以上もの昔から、人の世の哀しみや願いを背負い、特定の条件を満たした者たちの前に現れては、その運命の歯車を動かし続けている「影の存在」であるということ。
そして何より、貴殿自身には『自分の願い』というものが一切存在しないということでした。
私は驚愕しました。
他人の絶望を救い、富を与え、道を切り開きながら、貴殿自身は永遠に報われることのない孤独の闇の中で生き続けている。
金も、権力も、栄光も、貴殿の前では何の意味も持たない。
貴殿が求めているのは、そんなものではないからです。
私は手記の片隅に、こう書き留めました。
『彼は、何ひとつ自分のためには望まない。ただ他人のために存在し、他人のために消えるだけの、あまりにも純粋で、あまりにも残酷な罰を生きている』
だからこそ、私は恐れました。
貴殿があまりにも無私のまま、他人のためにすべてを捧げ続けていることが、恐ろしくて仕方がなかったのです。
「……おじい様が再起できたのは……あの夜の出会いがあったから……」
美月は声を漏らし、ハッと息を呑んだ。
会社を大きくし、菊池貿易をここまで築き上げたのは祖父の才覚だと、美月は疑いもせず信じていた。だが、そのすべての始まりには、人ならざる存在であるミカヅキから授けられた「生き直すための縁」があったのだ。
手紙は、さらに深く、核心を突く真実へと続いていた。
あの夜、貴殿は私にこうも仰いました。
「人は終わりがあるからこそ、その瞬間に意味を見出す。だが、私には終わりがない」と。
千年の時を生きる罰。それは、他者の願いを叶え続けることによってのみ許された、終わりなき漂流でした。
だからこそ私は、晩年に至り、一つの決断を下しました。
私の最愛の孫娘――美月。
傲慢で、しかし誰よりも気高く、孤独に会社を背負おうとするあの子を、私は貴殿の傍らに置くことにしたのです。
それは貴殿がただの「影」としてではなく、一人の人間として、誰かの隣で温かな幸福に包まれる未来を……私は心から願っていたのです。
この手紙がいつか美月の手に渡る時、すべての真実が暴かれることでしょう。
どうか、貴殿の孤独が報われますように。
「…………あ……」
美月の手から、古い和紙の束がパラリと畳の上へ滑り落ちた。
『彼は、何ひとつ自分のためには望まない』
『美月の光が、いつか貴殿の孤独を溶かす奇跡に……』
祖父が遺した言葉のすべてが、美月の胸の奥深くへと突き刺さる。
自分が「不気味な置物」「遺言に縛られた道具」と忌み嫌い、冷たく突っぱねてきた夫。その正体は、千年の長きにわたり罰を背負い、他者の願いを叶え続けるだけの孤独な存在だった。そして祖父は、そんな彼を救いたいと願い、美月をその隣に託したのだった。
「私は……何も知らずに……」
美月は両手で顔を覆い、絞り出すような声をあげて泣き崩れた。
彼がどれほど静かに自分を見守り、どれほど深い無償の愛で自分を支えてくれていたのか。それに応えるどころか、自分のプライドを守るために彼を拒絶し、最後には傷つけて追い払ってしまった。
部屋の中を満たす夕闇の中で、美月は震える身体を抱きしめながら、一つの強烈な確信に至っていた。
彼をこのまま失いたくない。
もう一度彼に会いに行き、今度は自分の口で、自分の意志で、彼の名前を呼びたい――。
美月は顔を上げ、涙に濡れた瞳で窓の外の夜空を見つめた。
そこには、冷たく冴えわたる美しい三日月が、静かに浮かんでいた。




