第31話 空白
静寂というものは、これほどまでに重く、そして冷たく人の心を苛むものなのだろうか。
三日月朔夜が姿を消してから、丸三日が経過していた。
菊池貿易の本社ビル、その最上階に位置する社長室には、かつてと変わらぬ秋の柔らかな陽光が差し込んでいた。デスクの上には、臨時株主総会を無事に乗り切り、外資ファンドや社内の不穏分子を完全に排除したことを示す、輝かしい業績報告書が整然と並べられている。
経済紙の紙面には「若き女性社長・菊池美月、卓越した手腕で危機を完全突破」の文字が躍り、幹部たちも晴れやかな笑みを浮かべて業務に励んでいた。
美月が望んだ通りの世界。自分の力だけで会社を守り抜き、亡き祖父・政臣の遺した事業を盤石なものとした、完璧な日常がそこにはあった。
だが――。
美月はデスクの前に座り、手にしていた万年筆を握りしめたまま、微動だにできずにいた。
視線が、吸い寄せられるように部屋の隅の応接ソファへと向かってしまう。
そこには、いつも彼がいた。
完璧な漆黒のスーツを纏い、澄んだ藍色の瞳で古い洋書をめくり、会社の躍進にも熱狂にも一切関心を示さず、ただ静かに佇んでいた男。
「置物」と蔑み、手助けなど不要だと突き放し、彼の差し出す温かいハーブティーを何度も、何度も拒絶し続けた。
(なんなのよ……。いなくなって清々したはずでしょう……?)
美月は自らに言い聞かせるように、ぎゅっと目を閉じた。
だが、胸の奥にぽっかりと開いた巨大な空白は、どれだけ自分を誤魔化そうとしても埋まることはなかった。
ふとした瞬間に、彼の気配を探してしまう。お湯が沸く静かな音、立ち上るハーブの爽やかな香り、そして、自分の体調や感情の乱れをすべて見抜いていたような、低く澄んだ声。
それらのすべてが失われた社長室は、まるで温度を奪われた冷たい檻のようだった。
「……菊池社長、本日の午後の日程ですが――」
「キャンセルしてください」
美月は深く沈んだ声で、報告に来た幹部の言葉を遮った。
「え……? ですが、主要取引先との慶事の会食が――」
「すべて後日に延期してください。……少し、体調が優れないのです」
幹部は驚いたように目を見開いたが、連日の激務による疲労だと解釈したのか、心配そうに一礼して退出していった。
一人残された美月は、そっと机の引き出しを開けた。
そこには、彼が遺していった一枚の緑の書類――『離婚届』が収められていた。
夫の欄には『三日月 朔夜』の流麗な署名と捺印。そして、短く書かれた二行だけの別れの言葉。
『約束の時は終わりました。今まで私につきあってくれて、ありがとう。』
美月はその紙を震える指先でなぞった。
「……勝手すぎますよ、三日月さん」
ぽつりと零れ落ちた声は、誰もいない部屋の空気に寂しく溶けていった。
理由も、真実も、何も明かさないまま、ただ結果だけを残して去っていく。
自分の預かり知らぬ場所で危険をすべて排除し、自分には「自力で乗り切った」と思わせたまま、綺麗に姿を消す。
(私は……あなたに守られていただけだったの……? あなたが影で泥を被ってくれていたから、私は笑っていられたの……?)
真実を知るのが怖くて、プライドを守るために彼を遠ざけ続けた。しかし、彼が本当にいなくなって初めて、自分がどれほど彼の存在に依存し、彼の静かな佇まいに救われていたのかを、日常の細部で思い知らされていた。
居ても立ってもいられなくなった美月は、逃げるように社長室を後にした。
向かったのは、都心から少し離れた郊外に建つ、菊池家の本邸であった。
亡き祖父・政臣が暮らし、そして自分とミカヅキが形だけの夫婦として暮らしていた旧い邸宅。
主を失った屋敷は、驚くほど静まり返っていた。
美月は離れにあるミカヅキの部屋へと向かった。
結婚生活の五年問、彼が自室として使っていたその部屋に、美月が足を踏み入れるのはこれが初めてだった。彼を拒絶し、夫婦としての接触を極力避けてきた美月にとって、彼の私生活は未知の領域だったのだ。
ドアを開けると、そこには驚くほど何もない空間が広がっていた。
整然と畳まれた予備のスーツ、何冊かの古い洋書、そして庭のハーブを手入れするための小さな剪定ハサミ。千年の時を漂うように生きてきた男の部屋は、まるで最初から誰も住んでいなかったかのように殺風景だった。
(本当に……何も残していかないのね、あなたは……)
胸を締め付けられるような切なさに襲われながら、美月は部屋の中を歩いた。
ふと、木製の古びた机の引き出しに目が留まった。
美月が吸い寄せるようにその引き出しを開けると、奥の方に、重厚な桐の箱がひとつ納められていた。
箱の蓋を開けると、そこには、黄色く変色した和紙の手紙が、整然と束ねられて収められていた。
一通一通、丁寧な毛筆で書かれた差出人の名前。
――『菊池 政臣』。
美月の息が止まった。
亡き祖父の手紙。それも、一通や二通ではない。何十通もの手紙が、時代を感じさせる和紙に認められ、大切に紐で括られていたのだ。
美月は震える手で、その手紙の束を取り出した。
一番上にある手紙の和紙は、数十年前のもののようだった。達筆な祖父の筆跡で、ミカヅキへ向けた深い感謝と、苦悩、そして誓いが記されている。
(おじい様から……三日月さんへの手紙……?)
美月は便箋を胸に抱きしめた。
あの不吉な遺言を残し、美月とミカヅキを結婚させた祖父。
そして、多くを語らぬまま、影となって美月を守り続け、去っていった夫。
二人を結びつけていた本当の『約束』とは一体何だったのか。
三日月朔夜という男は、一体何者だったのか――。
部屋の中に差し込む夕暮れの赤い光の中で、美月は深く息を吸い込んだ。
逃げ続けることは、もうやめにする。彼の真実から目を背け、自分の誇りだけを守ろうとする幼い自分は、もう捨てよう。
美月は硬い決意を胸に、祖父の手紙の結び目を、静かにほどき始めた。




