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月を喰む夜に、君を娶る  作者: 冬馬美沙
第3章 受け継がれる誓いと契約
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第30話 静かな去り際と一枚の紙

 昨夜の冷たい雨は明け方にはすっかりと上がり、澄み渡る秋の青空が東京の街並みを包み込んでいた。


 菊池貿易本社ビルの最上階。光が眩しく差し込む社長室で、菊池美月は一人、早朝の静寂の中に立っていた。


 「……遅いですね」


 美月は洗練された腕時計に目線を落とし、不機嫌そうに呟いた。


 午前八時。普段であれば、どれほど早く出社しても、あの男――三日月朔夜はすでに部屋の隅の応接ソファに静かに腰掛け、古い本を開いているはずだった。しかし、今日に限ってその姿はどこにもなく、彼がいつも使っているガラスのティーポットやカップも、綺麗に磨かれたまま整然と棚に収められていた。


「あんなに生真面目な人が遅刻だなんて……。昨夜、私が強く言い過ぎたからかしら」


美月は腕を組み、冷ややかな表情を装いながらも、胸の奥に広がる正体不明のざわめきを打ち消せずにいた。


「自分が不要だと言われて、ようやく辞退する気になったのなら結構ですわ。私は最初から、あんな不気味な人の助けなんて借りずにやってきたのですから」


自らに言い聞かせるように、美月は強く背筋を伸ばした。


今日はいよいよ、外部からの脅威や社内の不安をすべて払拭し、会社を守り切ったことを宣言する運命の株主総会。自分の力だけで菊池貿易を守り抜き、亡き祖父・政臣の遺志を継ぐ真のリーダーとして立つ日なのだ。


その時、社長室の重厚なドアが慌ただしくノックされ、経営企画部の幹部が駆け込んできた。


「菊池社長! 大変です! 昨夜、逃亡中だった吉岡が警察に身柄を拘束されました! 我が社の国際送金システムを狙った不正アクセスを企てていたようですが、なぜか未遂のまま証拠を完全に押さえられたとのことです!」


美月は眉をひそめ、冷静さを保ちながら尋ねた。


「……吉岡が? 一体誰がその証拠を警察へ?」


「それが、警察側も『匿名の大口情報提供者から完璧な解析データが持ち込まれた』としか把握できていないようでして……。社内のシステムには傷ひとつついておりません!」


「……そう、ですか」


美月は息を呑み、胸の上にそっと手を当てた。


まただ。自分の預かり知らぬ場所で、いつの間にか危険が立ち消えている。黒川の時も、買収工作の時もそうだった。自分の誇りと采配で乗り切ってきたはずの試練の裏側に、いつも冷たい違和感が残る。


幹部は一礼すると、一枚の薄い文箱をデスクの上に置いた。


「それと社長、今朝、受付に貴方様宛ての配達物が届いておりました。差出人の記載はございません」


幹部が退出すると、部屋には再び静寂が戻った。


美月は不審に思いながらも文箱の蓋を開けた。そこに収められていたのは、数枚の書類と、一通の小さな封筒だけだった。


書類の一番上に置かれていた紙を目にした瞬間、美月の思考が真っ白に染まった。


そこには、公的な緑の枠線とともに、ハッキリと印字されていた。


『離婚届』――。


夫の欄にはすでに、流麗で几帳面な字で『三日月 朔夜』の署名と捺印がなされていた。妻の欄だけが、ぽっかりと白い空白のまま残されている。


「……な……に……これ……?」


美月の指先がガタガタと震え出した。


添えられていた小さな封筒を開くと、そこには便箋が一枚だけ入っていた。ただ、短く二行だけ、彼の静かな声が聞こえてくるような文字が刻まれていた。



美月さんへ


約束の時は終わりました。

今まで私につきあってくれて、ありがとう。


三日月 朔夜


「……っ……!? なに……なんなのよ、これ……!?」


美月は手紙と離婚届を握りしめ、叫ぶように声を上げた。


『約束の時』? 『つきあってくれてありがとう』?


何も説明せず、何も明かさず、ただ一方的にこの紙一枚を置いて消えるなんて、あまりにも勝手すぎる。


「冗談じゃないわ……! 勝手に人の家に上がり込んでおいて……こんな紙一枚で終わりにするつもり!?」


美月は誰もいない応接ソファへと駆け寄った。


だが、そこには秋の冷たい光が差し込んでいるだけで、ミカヅキの気配は微塵も残っていなかった。彼が毎日読んでいた古い洋書も、漆黒のコートも、すべて消え去っている。


デスクの脇には、彼が最後に手入れをしていた小さなガラスのティーポットと、一度も美月が口にすることのなかったハーブの茶葉だけが、静かに残されていた。


「三日月さん……! 戻りなさい! 戻って説明しなさいよ……!」


美月は離婚届を胸に抱きしめ、誰もいない部屋で叫んだ。


自力で会社を守ったという誇り、彼を「不要な置物」だと追い払おうとしていた自分。それなのに、いざ彼が何も言わずに自分の世界から消え去った瞬間、胸を切り裂くような途方もない喪失感と不安が美月を襲っていた。


彼が裏で何をしていたのか、なぜ自分を守るようにそこに居続けたのか、そしてなぜ今去っていったのか――すべての謎は闇の中に伏せられたまま、ただ冷たい離婚届だけが残された。


美月は溢れ出す涙を止められないまま、膝から崩れ落ちた。


「私……私、まだあなたに……何も聞いていないのに……っ……!」


静まり返った社長室に、美月の切ない泣き声だけが虚しく響き渡っていた。


第3章 受け継がれる誓いと契約<完>

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