第29話 迫る爪痕と暗闇の決意
黒川専務の失脚と外資系ファンドの撤退という二大危機を乗り越えた菊池貿易は、表面上、過去最高の安定期を迎えていた。
しかし、追い詰められた鼠ほど恐ろしいものはない。
黒川の解任後、警察の追手を逃れて潜伏していた彼の側近・元常務の吉岡は、東京臨海部の荒涼とした倉庫街の一角に身を潜めていた。彼の目の前には、暗黒街のブローカーを通じて買い付けた違法なハッキング端末と、菊池貿易の社内ネットワークを壊滅させるための致命的なウイルスプログラムが起動していた。
「クソッ……! 黒川専務を刑務所に送り込み、自分だけが誇らしげに社長の座に君臨し続けるなど……絶対に許さんぞ、菊池美月……!」
吉岡の目は血走り、怨嗟の言葉を吐き捨てた。
彼の狙いは単純かつ極めて破滅的だった。菊池貿易の全国際送金システムを暴走させて数千億円規模の架空送金を発生させ、会社を一夜にして倒産へと追い込むこと。そして、そのすべての責任を社長である美月にかぶせ、社会的に抹殺することであった。
「今夜だ……。今夜、菊池貿易のすべてを灰にしてやる……!」
吉岡の歪んだ笑い声が、薄暗い倉庫内に虚しく響き渡った。
――同じ頃。夜の八時を回った菊池貿易本社・社長室。
美月は不眠不休の疲労を押し隠しながら、明日の株主総会に向けたスピーチ原稿の最終確認を行っていた。
窓の外には、東京湾を臨む夜景が煌々と輝いている。
美月は胸の上にそっと手を当てた。黒川の件、アイリス・キャピタルの件……激動の数か月間を駆け抜け、自分は社長として確かに成長したという自負があった。
だが、その輝かしい達成感のすぐ隣には、依然として消えることのない冷たい影がまとわりついていた。
部屋の隅の応接ソファ。そこに静かに座る三日月朔夜――ミカヅキ。
彼は今夜も漆黒のスーツを纏い、無言のまま手元の古い洋書に目を落としていた。
美月はペンの手をとめ、不機嫌さを隠そうともせずにミカヅキを睨みつけた。
(……相変わらずね。私がどれだけ社内で称賛されようと、この人は何の感情も示さない。……本当に、不気味で嫌な人)
美月の中で、彼に対する感情は複雑にねじれていた。
彼が裏で何かをしているのではないかという深い恐怖と疑惑。そして同時に、どれほど問い詰めても何も語らず、自分を「守られる存在」として遠ざけ続ける彼に対する、言葉にできない悔しさと苛立ち。
「三日月さん」
美月の冷たい声が静かな室内に響いた。
ミカヅキはゆっくりと本から目を上げ、底知れぬ藍色の瞳を美月へと向けた。
「なんだね、美月さん」
「明日の株主総会が終われば、我が社の防衛体制は完全に完了いたしますわ。……もう、あなたの不気味な存在感に怯える必要もなくなります」
美月の言葉には、自分を勇気づけるための強いトーンが込められていた。
「あなたがどんな隠し事をしていようと、私はこの会社を自分の力で守り抜きました。あなたがおじい様の遺言を理由にこの家に居座る理由も、もうじき無くなりますのよ」
自立を宣言する美月の強い視線。
対するミカヅキは、感情を一切見せることなく、静かに立ち上がった。
彼はいつものようにサイドボードへ歩み寄ると、静かにお湯を沸かし始めた。やがて、小さな湯気を立てるガラスのカップが、トレイに乗せられて美月のデスクへと運ばれてくる。
トントン。
デスクの脇に置かれたカップから立ち上ったのは、どこか切なく静かなパッションフラワーとリンデン、そして微かな柑橘の香りだった。荒れ狂う感情を静かに鎮め、深い安らぎをもたらす完璧な調合。
「……明日は長い一日になる。今夜はこれ以上神経を擦り減らさず、体を休めるといい」
ミカヅキの低く澄んだ声。
美月はそのカップを一瞥すると、冷酷に首を振った。
「拒絶しているのが分かりませんの? 私はあなたのお茶など一口たりとも飲む気はありませんわ!」
美月は手を伸ばし、カップを遠くへ押しやった。
「あなたの淹れるハーブティーも、その哀しそうな目つきも……私は絶対に受け入れません! 私に手助けが必要ないことを、明日証明してみせますから!」
刺すような美月の叫び。
ミカヅキは押し返されたカップを静かに見つめると、悲しむ素振りすら見せず、ただ静かに一礼した。
「……そうか。ならば、それでいい」
ミカヅキはカップを引き下げると、静かに社長室の扉を開けて出て行った。
残された美月は、彼の去った後姿を睨みつけながら、必死に乱れた呼吸を整えた。
(絶対にブレない……。私は一人で立つの……!)
――だが、美月には何も見えていなかった。
社長室を出たミカヅキの足取りが、地下駐車場へと向かい、迷いのない手つきで黒の高級セダンの運転席へと乗り込んだことを。
ミカヅキの手元にあるスマート端末には、臨海部の倉庫から送信されている違法プログラムの発信源と、吉岡の潜伏先が完全に特定されていた。
「……菊池貿易を崩壊させようとする最後の毒か」
ミカヅキの漆黒のコートが、夜の闇に静かに揺れた。彼の美しい顔立ちからは、昼間の穏やかさが消え去り、千年の時を生き抜いてきた冷徹な守護者の光が宿っていた。
漆黒のセダンが静かに走り出す。
ミカヅキは暗い街並みを見つめながら、一人静かに呟いた。
「政臣……約束の時だ」
ミカヅキの胸ポケットには、美月宛てに書かれた一通の封筒が静かに収められていた。
「吉岡の手口、黒川一派の裏金、そして菊池貿易を脅かすすべての脅威を……今夜、完全に破砕する。それが終われば、私の役目はすべて終わる」
美月が自分を拒絶し、己の力で立ったと信じ込んでいる今こそが、彼が姿を消すべき最善のタイミングであったのだ。
「美月さん……君は光の中を進めばいい。闇の中に残る毒は、すべて私が連れていく」
雨が静かに降り始めた東京の夜。
美月のあずかり知らぬ場所で、ミカヅキはすべての決着をつけるため、最後の暗闘へと足を踏み入れていた。




