第28話 忍び寄る終局と深まる孤影
「アイリス・キャピタル」の突然の撤退劇から数日、菊池貿易の市場価値は過去最高を更新し、社内はまさに祝勝ムード一色に包まれていた。
外部の捕食者すら退けた若き女性社長・菊池美月の名は、経済界のみならず広く世間に轟き、彼女の決断力と采配は「亡き政臣会長の再来」とまで称賛されていた。
だが、当の美月の胸中にあったのは、誇らしさではなく、日増しに膨らんでいく底知れぬ恐怖と不気味さだった。
(なぜ……? どうしてあんな巨大ファンドが、私の防衛策が完成する前にあっさりと手を引いたの……?)
深夜、静まり返った社長室で、美月は端末に表示された撤退速報と取引記録を何度も何度も読み返していた。
どれほど自らの手腕を信じ込もうとしても、ビジネスの常識では説明のつかない「不自然なタイミング」が、彼女の鋭い頭脳を苛み続けている。黒川の失脚の時と同じだ。自分が必死に足掻いている裏で、何者かが敵の喉元を直接食いちぎり、戦いそのものを終わらせているのではないか――。
美月はそっと視線を巡らせた。
いつもの応接ソファ。そこには、部屋の明かりを極限まで落とした暗がりの中で、ミカヅキが一人静かに佇んでいた。
月光を背景にした彼の横顔は、彫刻のように美しく、そしてこの世のあらゆる感情から切り離されているかのように冷ややかだった。
美月タッチペンを握りしめ、意を決したように固い口を開いた。
「……三日月さん」
ミカヅキは静かに本から目を上げ、どこまでも深い藍色の瞳を美月へと向けた。
「なんだね、美月さん」
「あなた……アイリス・キャピタルの撤退に、何か関与しているのですか?」
直球の問いただし。美月の声には、自尊心を揺さぶられた者の震えと、拒絶の威圧感が混ざり合っていた。
「あのファンドが手を引いたのは、私の防衛戦略と主要株主への働きかけが功を奏したからですわ。……違いますか? あなたがまた裏で不気味な真似をしたとでも言うつもり?」
自分を納得させるための必死の問いかけ。
対するミカヅキは、微動だにせず美月を見つめ返すと、深く静かな声で答えた。
「君が自らの力で会社を守り抜いた。……それで十分ではないか」
「嘘!」
美月は激しく立ち上がり、デスクを叩いた。
「私を誤魔化さないで! あなたはいつもそうやって、何も答えず、何も明かさず、置物のようにそこに座って私を見下している! おじい様の遺言を盾にして、私の周囲で一体何をしているの!? あなたのその素知らぬ顔が……私はたまらなく恐ろしいのよ!」
感情を爆発させる美月。
だが、ミカヅキの瞳に宿るのは、激しい感情の波ではなく、ただただ深い哀愁と静けさだった。
「……君が私をどう思おうと構わない。恐怖を抱くことも、拒絶することも、君の自由だ」
ミカヅキは静かに立ち上がると、サイドボードへ歩み寄り、いつもと同じようにティーポットでお湯を沸かし始めた。
カタリ、とトレイに乗せられて運ばれてきたガラスカップ。
そこに注がれたのは、澄んだ琥珀色のハーブティーだった。カモミールとパッションフラワーの甘い香りが、張り詰めた室内に穏やかに広がっていく。
「……乱れた神経は、正常な判断を妨げる。今夜はこれ以上考えず、休むといい」
デスクの脇に静かに置かれたカップ。
美月は立ち上がったまま、その温かい湯気を吐き出すカップを睨みつけ、激しい拒絶の意を示した。
「……要りませんわ。私はあなたのお茶も、あなたが存在することも、何ひとつ受け入れる気はありません!」
美月は手を伸ばし、乱暴にカップを遠ざけた。その弾みで、温かいお茶が数滴、デスクの上にこぼれ落ちる。
美月は冷酷な視線をミカヅキへ向け、叩きつけるように言い放った。
「あなたの手助けなんてごめんです。私は私の力で菊池貿易を守り、あなたという存在が不要であることを……この先も証明し続けてみせますわ!」
刺すような美月の強い拒絶。
ミカヅキはこぼれたお茶を静かに拭うと、傷ついた素振りすら見せず、ただ低く呟いた。
「……それでいい、美月さん」
ミカヅキは去り際、一瞬だけ哀しい眼差しで美月を見つめた。
「君が自分ひとりの足で立っていると信じられるなら……私はいくらでも、影になろう」
ミカヅキは静かに応接ソファへと戻り、それ以上言葉を発することはなかった。
美月は自室へ戻るため社長室を後にしたが、胸の奥を重く押し潰す不気味なざわめきと虚しさは、どれだけ自分に言い聞かせても消えることはなかった。
――そして、美月が去った後の深夜の社長室。
ミカヅキは一人、暗闇の中で漆黒のスマート端末を開いていた。画面に映し出されているのは、黒川失脚後に逃亡していた残党たちの動向と、それらを裏で操る「菊池貿易の最古の暗部」に関する極秘データだった。
ミカヅキの手元で、古い羊皮紙がカサリと音を立てる。それは、亡き政臣と交わした最後の誓約書であった。
「……政臣。終わりが近づいている」
ミカヅキは月光を見上げ、静かに呟いた。
「すべての毒を喰らい尽くし、あの子に真実を遺す時が……間もなくやってくる」
ミカヅキの身体を包む影が、夜の闇に深く沈み込んでいく。
何も知らずに己の誇りを胸に突き進む美月。
己の存在そのものを消し去る準備を進めながら、最後の決戦へと向かうミカヅキ。
二人のすれ違いの物語は、切ないカウントダウンを刻み始めていた。




