第27話 揺らぐ要塞と冷徹な牙
外資系投資ファンド「アイリス・キャピタル」による敵対的買収の影が忍び寄ってから、数日が経過した。
菊池貿易の社内は、再び緊迫した空気に包まれていた。美月は不眠不休で防衛策の陣頭指揮を執り、主要株主への根回しや自己株式の取得スキームを次々と打ち出していた。彼女の頭脳明晰な采配と徹底した実務処理能力は、社内の社員たちに改めて「この若い社長こそが今の菊池貿易の要である」という信頼を植え付けていた。
「菊池社長! 海外の主要株主である『ブルー・フォレスト』ファンドからの書簡が届きました! 我々の防衛提案に対し、全面的に支持するとの回答です!」
社長室に飛び込んできた経営企画部の幹部は、興奮を隠しきれない様子で報告した。
デスクの前に座る美月は、心地よい疲労感を覚えながらも、凛とした笑みを浮かべて頷いた。
「よくやってくれました。これで過半数の議決権確保はほぼ確実なものとなりましたわ。アイリス・キャピタルがどれほど強引に株式を買い集めようとも、我が社の牙城を崩すことなど絶対にできません」
「流石でございます! 貴方様のご指導があれば、どのような外資の脅威であっても恐れるに足りません!」
幹部が晴れやかな表情で退出していくと、美月はそっと背もたれに体を預け、大きく息を吐き出した。
その胸の中には、前回の「黒川の事件」の際に味わったような無力感に対するリベンジの達成感が満ちていた。あの時は不意を突かれ、あの不気味な男の力を借りる形になってしまったが、今回は違う。完全に自分自身の才覚と采配だけで、巨大な外資ファンドの買収工作を正面から粉砕してみせたのだ。
(どうかしら……。あの男が見ていようとも、私はもうあの時の私じゃないわ。自分の力だけで、この会社を完璧に守り抜いてみせる……!)
美月は自らの実力に対する誇りを再確認するように、デスクの脇に目をやった。
そこには、いつものように応接ソファに腰掛け、古い洋書をめくるミカヅキの姿があった。
相変わらず感情の読めない漆黒のスーツ姿。冷たく澄んだ藍色の瞳。社内の人間が誰も彼も「アイリス・キャピタル撃退の立役者は社長だ」と称賛しているというのに、この男は相変わらず自分の世界に閉じこもり、会社の危機など対岸の火事であるかのように振る舞っている。
美月は冷ややかな溜息を漏らすと、意図的に彼から視線を逸らした。
(本当に、何のためにそこにいるのか分からない人……。私の成功が面白くないのかしら。それとも、私が一人で立っていく姿を見るのがそんなに不愉快なのかしらね)
だが、美月がどれほど強がってみせても、彼女の知らないところで、事態はすでに静かに、しかし決定的な結末へと向かっていた。
――遡ること、数時間前。都内の洗練された会員制ホテルの一室。
アイリス・キャピタル日本法人の最高責任者である男は、冷や汗を拭いながら、目の前に座るミカヅキを見つめていた。
男の手元には、つい先ほど本社から叩きつけられた「日本法人における全ての買収工作の即時凍結、および全保有株式の菊池貿易への無条件売却」を命じる電報が置かれていた。
「な……なぜだ……! 我々が長年かけて築き上げてきたアジア圏の投資ネットワークの秘密や、脱税の証拠が、どうして君の手中にあるんだ……!」
恐怖に顔を引きつらせる男に対し、ミカヅキは紅茶のカップに視線を落としたまま、冷徹な声で言い放った。
「君たちが裏でどのような汚い手段を使おうと勝手だが、菊池貿易の株を買い占めることは、私との契約に反する」
「ま、待ってくれ……! 一体君は何者なんだ……! この世の人間とは思えない……!」
「……これ以上の警告はない。明日、マーケットが開く前に全ての株を手放せ。でなければ、ファンドそのものが消滅すると思え」
それだけ言い残すと、ミカヅキは静かに立ち上がり、部屋を後にした。
外資系ファンドの背後で糸を引いていた巨悪の組織は、美月の耳に届くことすらないまま、一晩にして完全に出し抜かれ、無力化されていたのだ。
――そして、その日の夕方。
社長室で一人、最終的な防衛書類に目を通していた美月の元へ、慌てた様子で財務担当役員が駆け込んできた。
「き、菊池社長……! 大変なことが起きました!」
「どうしたのですか、そんなに慌てて。ブルー・フォレストからの支持で何かトラブルでもありましたの?」
「いえ、そうではありません! 先ほど、アイリス・キャピタルが突如として市場に向け、『菊池貿易に対する全ての敵対的買収工作からの完全撤退』、および『保有する全株式の売却』を公式に発表したのです!」
「……なっ……!?」
美月の手がピタリと止まった。彼女は目を見張り、役員の差し出した端末画面を凝視した。
そこには、世界中を震撼させてきた冷徹な外資ファンドが、突如として手を引き、菊池貿易から去っていくという、あまりにも不可解で劇的なニュース速報が踊っていた。
(嘘……あんなにしつこく、あらゆるルートから仕掛けてきていたファンドが……なぜ、一晩でこんなにあっさりと……?)
美月の胸に、冷たい疑問と、得体の知れない恐怖がざわめき立った。
前回の黒川の時と全く同じ。自分が必死に防衛策を練り、これからという時に、敵の根源そのものが勝手に崩れ落ちていく。まるで、見えない巨大な力が自分の周りの脅威をすべて引き裂いてくれているかのような――。
美月は思わず顔を上げ、部屋の隅のソファへと視線を走らせた。
そこには、いつものように静かに本を閉じ、微動だにせず座っているミカヅキの姿があった。
彼の深い藍色の瞳が、ふと美月の視線をとらえた。その瞳には、勝利の余韻も、誇らしげな色も一切なく、ただどこまでも深く、静かな海のような平穏が湛えられていただけだった。
(まさか……この男が、また裏で……?)
美月の心臓が、恐怖に似た激しい鼓動を打った。
もし、この一連の危機がすべて、あの静かな男の手によってコントロールされていたのだとしたら。自分が「自分の力で乗り切った」と信じて誇っていたすべての成果は、彼の掌の上で踊らされていただけの滑稽な劇に過ぎなかったということになるのだろうか。
「……そんなはず、ないわ」
美月はかき消すように小さく首を振ると、震える拳を強く握りしめた。
「私は私の力で戦ったの。あの男が何をしていようと関係ない……!」
ミカヅキは美月の激しく揺らぐ動揺を静かに見つめながら、何も言わずに立ち上がると、いつものようにガラスポットでお湯を沸かし始めた。
やがて、温かいハーブティーがカップに注がれ、トントンと静かにデスクへと置かれる。
だが、今日の美月は、そのカップに手を伸ばすことすらできなかった。
真実へと近づく恐怖と、自分のプライドが音を立てて崩れ去っていく感覚。
二人の運命は、切なく加速していく。




