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月を喰む夜に、君を娶る  作者: 冬馬美沙
第3章 受け継がれる誓いと契約
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第26話 侵食する罠と変わらぬ影

 黒川専務とその一派の失脚によって社内の旧悪が一掃され、菊池貿易は表面上、かつてないほどの平穏と安定を取り戻したかのように見えていた。


 だが、巨大な企業組織から強大な重鎮たちが突如として姿を消したという事実は、外部の捕食者たちにとって格好の「隙」を生み出すことと同義であった。


 「菊池社長、緊急の報告がございます!」


 月曜日の朝一番、社長室に駆け込んできたのは、顔色を変えた財務担当役員であった。


 「大手外資系投資ファンド『アイリス・キャピタル』が、市場を通じて我が社の株式を猛烈な勢いで買い集めております! 先週末の時点で、すでに議決権の十二パーセントを保持していることが判明いたしました!」


 美月は手にしていた万年筆の手をとめ、鋭い視線を財務役員へと向けた。


 「アイリス・キャピタル……。あの不敵な敵対的買収で有名なファンドですわね。黒川専務たちの失脚による株価の混乱に乗じて、一気に仕掛けてきたというわけですか」


「恐らくはその通りかと……! 彼らはすでに他の主要株主たちにも接触を図っており、今月末の臨時株主総会にて、独自の社外取締役の解任および特別取締役の選任案を突きつけてくる構えです!」


美月は洗練されたデスクの上で、静かに両手を組んだ。


黒川たちの卑劣な陰謀を乗り越えたばかりだというのに、間髪を入れずに襲いかかってくる新たな試練。だが、美月の瞳に宿る光は、怯むどころか一層激しく燃え上がっていた。


(私を舐めないでいただきたいわ。社内の反乱分子を掃除したばかりの今、外部のファンドごときにこの会社を切り売りされてたまるものですか!)


「狼狽える必要はありませんわ。我が社が保有する自己株式の動員、ならびに創業家親族の議決権を固めれば、過半数の阻止は十分に可能です。大至急、防衛策の策定に入りなさい!」


美月は凛とした声を響かせ、毅然とした態度で指示を出した。


「はい! 直ちに防衛チームを立ち上げます!」


幹部たちが慌ただしく退出していく中、美月は深く息を吐き出し、自らの胸に強く言い聞かせた。


(大丈夫……。今度こそ、私自身の力でこの危機を乗り越えてみせる。あの男の手など、二度と借りたりしないわ……!)


美月の視線が、無意識のうちに部屋の隅へと向かう。


応接ソファには、今日も三日月朔夜が、静かに佇んでいた。


前回の事件で、彼がどこからか手に入れてきた「黒いファイル」によって救われたという事実は、今も美月の胸に重い棘となって刺さっていた。彼に対する不信感と、自分の力不足を突きつけられたかのような屈辱感。美月は彼の方を一度も直視しようとせず、意図的に無視するように端末画面へと向かい直した。


だが、ミカヅキは美月の硬直した態度をすべて見抜いているかのように、静かにソファから立ち上がった。


無言のままサイドボードへ向かい、ガラスポットでお湯を沸かす。立ち上る湯気とともに、手際よく温かいカップが用意され、トレイに乗せられて美月のデスクへと置かれた。


トントン。


静かな音とともに広がったのは、すっきりとしたローズマリーとペパーミントの中に、深みのある甘いジンジャーが混ざり合った、鮮烈で温かなハーブの香りだった。


「……無理に突っ張る必要はない。相手は個人ではなく、世界中の金融市場を裏で操るプロの集団だ。思考を研ぎ澄ませ、冷徹にならなければ呑まれるぞ」


ミカヅキの低く澄んだ声。


美月は出されたカップを冷ややかな目で見つめると、フンと鼻を鳴らした。


「大きなお世話ですわ、三日月さん」


美月の声には、先日の事件以来強まった、刺すような拒絶と意地が込められていた。


「相手がどんな金融ファンドであろうと、私は菊池貿易の社長として正々堂々と戦います。あなたに心配していただく筋合いはありませんし、今回ばかりはあなたの不気味な裏工作など必要ありませんの」


「助言だ。敵は表の株式市場だけにいるわけではない」


「結構です!」


美月はきっぱりと言い放つと、カップを乱暴に遠ざけた。


「いらないと言っているものを何度も出してこないでくださる? あなたの淹れたハーブティーを飲むくらいなら、白湯を飲んだ方がマシですわ!」


ミカヅキはその激しい言葉を受けても、眉ひとつ動かさなかった。彼の深い藍色の瞳は、夜の湖面のように静まり返っている。


「……そうか。ならば無理には勧めない」


ミカヅキは短く返すと、それ以上何も言わずにカップを引き下げ、静かにいつものソファへと戻っていった。


美月は彼の背中に向けて冷たい視線を向けながら、再び膨大な財務データの精査へと没頭した。


絶対に、自力でこの株式買収工作を退けてみせる。あの男に二度と「守られた」などと思わせないために――。


しかし、美月は気づいていなかった。


『アイリス・キャピタル』が仕掛けてきた敵対的買収が、単なる資金力による株式の買い集めなどではなく、菊池貿易の海外物流拠点を破綻させて株価を意図的に暴落させるという、極めて悪質な裏工作と連動していたことを。


そして――その日の夜。


美月が防衛策の策定のために不眠不休で社内に留まっていた頃。


都内の高層ビルの最上階にあるバーにて、ミカヅキが一人、アイリス・キャピタルのアジア代表である男と対峙していた。


「……菊池貿易から手を引け」


グラスを手に取ることすらなく、暗闇の中で静かに言い放つミカヅキ。


ファンドの代表は嘲笑おうとしたが、ミカヅキが差し出した一冊の古い羊皮紙のファイルと、そこに記された「ファンドの真の資金出資者たちの暗部」を目にした瞬間、顔面を蒼白にしてガタガタと震え出していた。


「お、お前は一体何者だ……!? なぜこんな情報を……!」


「美月さんの歩む道に、これ以上の泥を投げるな。次はないぞ」


冷酷な暗闇の刃のようなミカヅキの言葉。


買収工作の背後に潜んでいた巨大な悪意は、美月がその存在に気づくことすらなく、今夜もまた影の中で静かに潰されようとしていた。


自分の実力で会社を守っていると信じて前進する美月と、一切の手柄を語らず、闇の中で彼女の光を守り続けるミカヅキ。


噛み合わないまま深まっていく二人の距離は、どこまでも切なく刻まれていくのだった。


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