第25話 渦巻く疑惑と遠い背中
黒川専務とその一派が電撃的に解任され、警察の捜査が入るという前代未聞の不祥事に、菊池貿易の社内は蜂の巣をつついたような混乱に陥っていた。
だが、その動揺も長くは続かなかった。
社長である菊池美月の迅速かつ毅然とした指揮のもと、広報部によるメディア対応と株主への説明が滞りなく行われ、不祥事の火消しは最小限に抑えられた。黒川たちが溜め込んでいた不正流出資金の全額回収の目途も立ち、むしろ社内の不浄な膿を完全に出し切ったとして、市場からの評価は一段と高まる結果となった。
「菊池社長、社外取締役の方々からも『今回の見事な危機管理と迅速な決断力に感服した』との連絡が入っております。各取引先からの信頼も完全に回復いたしました」
社長室で報告を行う幹部たちの表情には、心からの敬意と安堵の色が浮かんでいた。
美月は洗練されたデスクの前に座り、凛とした笑みを浮かべて頷いた。
「ありがとうございます。ですが、ここで気を緩めるわけにはいきません。コンプライアンス体制を再構築し、二度とこのような不正を許さない強固な組織を作り上げますわ」
「はい! 我々も全力を尽くして菊池社長をお支えいたします!」
晴れやかな顔で退出していく幹部たちを見送り、一人になった社長室で、美月はそっと深く長い息を吐き出した。
――静寂が戻った室内に、不意に冷たい緊張感が漂う。
美月の視線は、無意識のうちに部屋の隅にある応接ソファへと向かっていた。
そこに腰掛けているのは、今日も静かに洋書をめくっている男――三日月朔夜。
いつもの変わらぬ漆黒のスーツ、透き通るような白い肌、そして深い夜の底を思わせる藍色の瞳。
黒川専務たちの不正を暴き、自分を絶体絶命のピンチから救い出したあの日から、社内では彼に対する評価が一変していた。あのような決定的な証拠を一瞬で手に入れてみせた特別顧問に対し、役員たちの間では「亡き政臣会長が隠し持っていた最強の調査機関の窓口なのではないか」「底知れない能力を持つ男だ」という恐れと尊敬が混ざり合った噂が駆け巡っていたのだ。
だが――美月の胸の中に渦巻いていたのは、尊敬でも感謝でもなく、胸を掻き乱すような激しい「疑惑」と「怖れ」だった。
(なんなの……あの人は一体、何者なんですの……?)
美月はペンを固く握りしめたまま、ミカヅキの美しい横顔を睨みつけた。
自分がいくら調べても辿り着けなかった海外の裏口座、サイバー犯罪組織との取引履歴、それらをたった一晩で完璧に揃えてみせた手腕。ただの「お飾り顧問」や「得体の知れない置物」などにできる芸当ではない。
(おじい様は、本当にこの人の正体を知っていたの……? なぜこんな底知れない男を私と結婚させ、会社の『盾』として残したの……?)
美月の中で、これまで築き上げてきたプライドと自負がグラグラと揺れていた。
自分は自らの努力と才覚で会社を守ってきたと信じたかった。だが、あの日、もし彼が不気味な黒いファイルを持って会議室に現れなかったら、自分は濡れ衣を着せられて社長の座を追われていたかもしれないのだ。
その事実を認めざるを得ないことが、美月の強い誇りを酷く傷つけていた。
「……三日月さん」
美月の硬く冷たい呼びかけに、ミカヅキは静かに本から目を上げた。
「なんだね、美月さん」
「あの日……あなたが臨時取締役会に持ってきたあのファイル。一体どこで手に入れたものですの?」
美月の眼差しは鋭く、詰問するような色を帯びていた。
「私や法務チームがどれだけ手を尽くしても見つけられなかった裏口座の情報を、なぜあなたのような人が手に入れることができたのですか? 正直にお答えください」
ミカヅキは表情ひとつ変えず、深く澄んだ藍色の瞳で美月を見つめ返した。
「言ったはずだ。私は君が目の前の課題に向き合い、正しく立つための環境を整えているだけだと。出処を気にする必要はない」
「気にする必要がないですって!?」
美月は思わず立ち上がり、声を張り上げた。
「私が何も知らないとでも思っているのですか! 社内ではあなたに対する不気味な噂が飛び交っていますわ! あなたが裏でどんな恐ろしい力を使っているのか、私が心配しないとでもお思いなの!?」
美月の激しい感情のぶつけ合いに対しても、ミカヅキの立ち居振る舞いは凪いだ海のように静かだった。
「君が心配する必要はない。君はただ、自分自身の正義と誇りをもって菊池貿易を導けばいい」
ミカヅキはそれ以上何も語らず、静かに立ち上がるとサイドボードへと向かった。
慣れた手つきでティーポットにお湯を注ぎ、立ち上る湯気を手際よくカップへ注ぐ。そして、トレイに乗せて美月のデスクへと運んできた。
トントン、と置かれたカップから広がるのは、甘く優しいカモミールとリンデンがブレンドされた、荒れ狂う心を穏やかに包み込むような香りだった。
「……今回の件で、君の神経は疲弊している。無理に真実を追おうとせず、まずは心を休めるといい」
ミカヅキの低く穏やかな声。
だが、その優しさが、今の美月には自分を子供扱いし、真実から遠ざけようとする冷酷な壁のように感じられた。
美月は差し出されたカップを見つめ、震える唇を噛み締めた。
香りを吸い込んだ瞬間、酷く逆立っていた感情がほんの僅かだけ鎮まりそうになる。その心地よさに恐怖した美月は、すぐさま心を硬直させ、激しく首を振った。
「……いりませんわ! 何度言ったら分かりますの! 私はあなたのお茶に助けてほしいわけでも、誤魔化されたいわけでもありません!」
美月は手で激しくカップを押し戻した。
「あなたの淹れるハーブティーも、その不気味な秘密主義も……私は絶対に認めませんから! 私に心を許してほしいなら、隠し事をすべて話していただきたいわ!」
刺すような美月の拒絶。
ミカヅキは押し戻されたカップを静かに受け止めると、何も言わずに引き下がり、いつものように応接ソファへと戻っていった。
(どうして……どうして何も話してくれないの……?)
美月は去っていくミカヅキの背中を、悔しさと混ざり合った寂しさを感じながら見つめた。
彼の手によって救われたという事実。
それなのに、彼の正体も、真の目的も何一つ分からないという恐怖。
自分を夫として認めず、頑なに拒絶し続ける美月と、すべての手柄を捨てて影の中で彼女を守り続けるミカヅキ。
二人の間に横たわる深い溝は、真実の欠片が覗いたことで、より一層複雑で切ない陰りを帯び始めていた。
そして、黒川一派の失脚によって社内の旧勢力が一掃された菊池貿易に、さらなる巨大な「試練」の影が静かに忍び寄りつつあった――。




