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月を喰む夜に、君を娶る  作者: 冬馬美沙
第3章 受け継がれる誓いと契約
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第19話 南東アジアの影

 南東アジアの大規模物流ルート再編プロジェクト――その第一段階となる現地企業「ヴェロン・ホールディングス」との提携交渉は、表向きには順調すぎるほどの滑り出しを見せていた。


 「菊池社長、ヴェロン社側から提示された合弁会社設立の基本合意書案でございます。こちらの要求した出資比率および経営権の保全条項が、ほぼ全面的に受け入れられております」


 経営企画部の若手エースが、晴れやかな表情でタブレットを差し出す。


 社長室のデスクでその条文を精査していた菊池美月は、安堵と達成感の混じった笑みを口元に浮かべた。


 「ええ、素晴らしいわ。相手方もこちらの提示した条件の合理性を理解してくれたようですね。……これなら、来月の現地での本調印に向けて、何の問題もなく進められそうです」


 「はい! これもすべて、菊池社長が夜を徹して指揮を執り、精密な事業計画を作り上げてくださったおかげです」


社員たちの称賛の言葉に、美月は照れくさそうに謙遜しながらも、胸の中で強い自負を噛み締めていた。


亡き祖父・政臣が温めていた構想を、自らの代で結実させようとしている。

反発していた役員たちを黙らせ、こうして巨大な案件を自分の手腕で形にしつつあるのだ。


(おじい様……見守っていてくださいね。私はもう、誰の手を借りなくても、菊池貿易を背負って立つことができます)


美月は密かに拳を握りしめた。


だが、そんな活気あふれる社長室の雰囲気に水を差すように、応接ソファから冷ややかな声が届いた。


「……交渉を急ぎすぎるのは危険だ」


一瞬で室内の空気が凍りつく。


書類から目を離し、ゆっくりと視線を向けた先には、今日も一冊の本を手にソファに腰掛けているミカヅキの姿があった。


報告に来ていた社員は気まずそうに身を縮め、美月はあからさまな不快感を隠そうともせずに眉をひそめた。


「……三日月さん。どういう意味でしょうか? ヴェロン社との交渉は、財務審査も法務リスクの抽出もすべて完了し、完璧な形で合意に達しようとしているのですけれど」


ミカヅキは持っていた本を静かに閉じると、深遠な藍色の瞳を美月へと向けた。


「表に出ている数字や法務書類が完璧であればあるほど、その裏にある歪みは隠蔽されやすい。ヴェロン社の現CEO・ヴェロン氏の周辺では、ここ数年で不自然な事業譲渡と不透明な資金流出が相次いでいる。彼らが菊池貿易との提携をこれほど急ぐ理由を、いま一度精査すべきだ」


美月は小さく鼻を鳴らした。


「不透明な資金流出ですって? 我々の調査チームや現地の大手監査法人からは、そのような報告は一切上がってきておりませんわ。……それとも、三日月さんは独自に調査でもなさったとでも仰りたいのですか?」


「……」


ミカヅキは答えず、ただ無言で美月を見つめ返した。


その無言の態度が、美月には「証拠もないのに口先だけで不安を煽り、自分の存在感を示そうとしている」ようにしか見えなかった。


「根拠のない懸念で、現場の努力と情熱に水を差すのはやめていただきたいわ。私はおじい様から教わった決断力をもって、このプロジェクトを最後までやり遂げます。……あなたに余計な口出しをいただく必要はありません」


きっぱりと言い放つ美月に対し、ミカヅキは感情の揺らぎを見せることなく、ただ短く息を吐いた。


「そうか。……ならば、これ以上は言わない」


彼はそれ以上追及することもなく、立ち上がるとサイドボードへと向かった。ガラスポットでお湯を沸かし、手際よく温かいハーブティーを淹れて美月のデスクへと運んでくる。


コトン、と置かれたカップから漂うのは、ほんのりと甘いカモミールとレモングラスが合わさった優しい香りだった。


「……いまの君には、興奮を鎮め、視界をクリアにする時間が必要だ」


「要りませんと言ったはずですわ!」


美月は立ち上がり、思わず声を張り上げた。


「ハーブティーなんて淹れて気取る暇があるなら、少しは具体的な提案や仕事をして見せたらどうなんですの!? 何の手助けもしないくせに、人の仕事に冷や水を浴びせて、不気味なお茶ばかり出して……本当に嫌な人!」


美月は乱暴にハーブティーのカップを遠ざけると、背を向けて窓の外の海を睨みつけた。


ミカヅキは、怒りに震える美月の細い背中を静かに見つめていた。


「……失礼した」


低い声とともに足音が遠ざかり、静かにドアが閉まる。


残された社長室で、美月は荒い息を整えながら、冷めていくカップを睨みつけた。


(なによ……! 自分が何もできない置物だからって、私が成果を上げるのが面白くないの……!? 絶対に負けないわ。現地での本調印を成功させて、あの男にぐうの音も出ないようにしてやるんだから!)


美月は悔しさと意地を燃やし、再び端末に向かって作業を再開した。


しかし――美月には何も見えていなかった。


ヴェロン・ホールディングスの背後で糸を引いていたのは、他ならぬ社内の反乱分子・黒川専務の息がかかった暗黒街の投資ファンドであったこと。

美月が手放しで喜んでいた「完璧な基本合意書」には、調印した瞬間に菊池貿易が巨額の連帯保証債務を背負わされ、会社を破綻に追い込む恐ろしいトラップが仕掛けられていたこと。


そして――その日の夜、美月が離れで眠りについた後。


ミカヅキが一人、都内の密室で、ヴェロン社の裏に潜む海外のフィクサーたちと直接対峙していたことも。


「……政臣との約束だ。美月さんの歩む道に、泥を投げる者は消す」


暗闇の中、ミカヅキの冷徹な手が、菊池貿易を揺るがすはずだった巨大な陰謀の根を、美月に気づかれることなく静かに叩き潰していた。


何も知らず、己の実力を信じて前進する美月と、闇の中で彼女の光を守り続けるミカヅキ。


すれ違う二人の運命は、より深く、より切なく交錯していくのだった。


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