第20話 解けぬ心と静かな香
南東アジアの大規模物流ルート再編プロジェクト――その運命を握る現地企業「ヴェロン・ホールディングス」との本調印式まで、残すところあと一週間。
東京臨海部にたたずむ菊池貿易本社ビルでは、連日にわたり深夜までプロジェクトの最終確認が続いていた。役員応接室や会議室の明かりが消えた後も、最上階の社長室だけは重々しい緊張感とともに、煌々と明かりが灯り続けている。
デスクに向かう菊池美月の眼前には、契約書の微細な文言を網羅した資料、現地港湾の稼働シミュレーション、さらには国際法務チームとのやり取りを記録した無数のデータが整然と並べられていた。
美月はタッチペンを握りしめたまま、ぐっと背筋を硬直させた。連日の酷い激務とプレッシャーにより、眼精疲労は限界に達し、首から肩にかけての筋肉が悲鳴を上げるように重く痛んでいた。
「……くっ……」
美月は思わず息を呑み、眉間を指で強く押し当てた。浅くなった呼吸を必死に整えようと、短く息を吐き出す。
全社を挙げた巨大プロジェクトの全責任が、いまや若い自分の細い肩に重く伸しかかっていた。失敗は絶対に許されない。亡き祖父・菊池政臣が命を懸けて築き上げた菊池貿易を、自分が先頭に立って守り抜くのだという決意。反発していた重役たちや世間の冷ややかな視線を完全に跳ね返し、自分一人でも会社を率いていけるのだと証明しなければならないという強い誇りと焦燥感が、彼女の神経を極限まで張り詰めさせていた。
(大丈夫……私ならやれるわ。数字も、条件も、法務リスクの洗い出しも、すべて私の指示通り完璧に整っている……。おじい様から教わった帝王学は本物なんだから……)
美月は自分にそう言い聞かせ、痛む目をこすりながら手元の端末画面へと視線を戻そうとした。
その時だった。
スッ……と、かすかな衣擦れの音とともに、スタイリッシュなデスクの脇に透明なガラスカップが静かに置かれた。
立ち上る微かな湯気とともに、ふわりと広がったのは、どこか凛とした静けさを感じさせるハーブの香りだった。柑橘の爽やかな甘みの奥に、深い森の木々を思わせる穏やかな香りと、柔らかな花びらの風味が複雑に交ざり合った、不思議なほど澄み切った香り。
「……集中が途切れている。無理な連続作業は判断力を鈍らせる」
ミカヅキの、相変わらず低い、けれど耳に心地よく響く静かな声。
美月は無意識のうちに、その漂ってきた香りを胸いっぱいに深く吸い込んでいた。
(……え……?)
その瞬間だった。
張り詰めて破裂しそうだった脳の奥の緊張が、まるで温かい水に浸されたように、じんわりと解けていく不思議な感覚が全身を駆け抜けた。ブルーライトに晒されて酷く痛んでいた目の奥の重みがふっと軽くなり、固く縮こまっていた胃の痛みが引き、浅かった呼吸がすっと深くなる。
あまりの心地よさと解放感に、美月は一瞬だけ瞳を閉じ、その穏やかな香りに身を委ねそうになった。
(あたたかい……。胸のつかえが落ちていく……すごく、心が楽に……)
――だが、次の瞬間。
美月はハッと目を開き、目の前で静かに佇むミカヅキの顔立ちが視界に入ると、咄嗟に心の中で激しい警報を鳴らした。
(何を考えているの、私……!?)
美月はすぐさま表情を固くこわばらせ、自らの胸に芽生えた一瞬の弱気を打ち消すように、乱れた背筋を強烈に伸ばした。
(この男は……おじい様の死に乗じて菊池家に上がり込んできた、得体の知れない存在なのよ! どこから来たのかも分からず、社内でも何ひとつまともな提案すら出さない置物……! こんなお節介なお茶一杯に惑わされて、心を許すなんて絶対にあり得ないわ!)
自分を甘やかすような安らぎへの恐怖と、彼に対する拭いきれない強い疑念が、美月の心に再び強固な鉄の壁を築き上げた。
美月は差し出されたカップには指一本触れようとせず、意図的に冷ややかで棘のある視線をミカヅキへと向けた。
「……余計なお世話です、三日月さん」
美月の声には、先ほどの一瞬の揺らぎを完璧に覆い隠すような、冷酷な拒絶が込められていた。
「私は自分の体調くらい自分で管理できます。それに、私がどれだけ疲れていようと、あなたに心配していただく筋合いはありませんわ」
冷たく言い放つ美月に対し、ミカヅキは悲しむ素振りも、反論する素振りすら見せなかった。彼の深い藍色の瞳は、夜の底にある静かな湖面のように凪いでいる。
「そうか。……なら、無理はしないことだ」
ミカヅキはそれ以上何も言わず、軽く手を挙げると、いつものように応接ソファへと戻り、静かに古びた洋書を開いた。
美月はデスクの上で冷め始めていくカップから乱暴に視線を逸らし、かたくなに手元の端末画面へと意識を向けた。
(そうよ……私は一人で立つの。あの男の淹れたお茶に救われたなんて、口が滑っても絶対に認めない……!)
美月は自らに強く言い聞かせるように、ペンを再び固く握りしめた。
美月には、何も届いていなかった。
ミカヅキが今日差し出したブレンドが、彼女の顔色の青白さと首筋の微かな強張り、そして呼吸の浅さを見抜き、離れの庭のプランターから特に高い鎮静効果を持つ稀少なハーブを自ら摘み取り、寸分違わぬ比率で調合したものであったことも。
そして、ヴェロン社との本調印を目前に控え、裏で密かに仕掛けられていた不当な契約書すり替えの暗躍を、ミカヅキがすでに昨夜のうちに、関係者を徹底的に抑え込んで完膚なきまでに阻止していたことも――。
ミカヅキは一切の手柄を語らず、自分の献身を明かすこともない。
美月は一切の心を開くことなく、かたくなに男を拒絶し続け、「自分の実力でこの過酷な状況を乗り切っている」と信じて突っ走る。
すれ違ったまま噛み合わない二人の時間が、どこまでも静かに、そして深々と刻まれていくのだった。




