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月を喰む夜に、君を娶る  作者: 冬馬美沙
第3章 受け継がれる誓いと契約
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第18話 噛み合わぬ日常とハーブティー

 菊池貿易本社ビルの社長室。


 眼下に広がるコンテナヤードと青い海を背に、菊池美月はデスクに広げたタブレット端末と財務計画書に静かに視線を走らせていた。


 「……はぁ」


 美月は小さく息を吐きながら、痛む眉間を指で軽く揉んだ。


 先の役員会を無事に乗り切り、反発していた重役たちを静観させたことで、美月は経営者としての第一歩を踏み出したという強い自負を抱いていた。だが、安堵したのも束の間、次なる大きな試練が彼女の前に立ち塞がっていたのだ。


 ――「南東アジア新規物流ルート開拓プロジェクト」。


 これは生前、祖父・政臣が温めていた一大事業であり、急速に拡大するアセアン市場への主要アクセスを握るための要となる案件だった。画面に並ぶリアルタイムの物流データや財務シミュレーションは、どれも完璧に見える。これが成功すれば、菊池貿易の事業基盤は向こう数十年間にわたって揺るぎないものとなるはずだった。


 だが、提携候補である現地企業との契約スキームや港湾利権の構造は複雑で、最後は人間の経営者による鋭い決断と覚悟が求められる難事業であった。


 「おじい様……私、絶対にこのプロジェクトを成功させてみせます。あなたからの教えと覚悟で、この会社を成長させてみせますから」


 美月は静かに画面を切り替え、自分自身を鼓舞するように呟いた。


 そんな彼女の視界の端に、どうしても気になって仕方がない「異物」が映り込んでいた。


社長室の応接用ソファに、深々と腰を下ろしている男。


三日月朔夜――ミカヅキ。


彼は今日も完璧に仕立てられたダークスーツを身に纏い、膝の上に一冊の古びた洋書を広げて静かにページをめくっていた。透き通るような白い肌に、整いすぎた不老の顔立ち、そしてどこまでも深い夜の底を思わせる藍色の瞳。


静謐で洗練された社長室の中で、その姿はあまりにも美しく、一枚の絵画のようだった。……だが、同時にここが何千人もの社員の運命を左右するビジネスの最前線であることを考えれば、彼の佇まいはあまりにも浮世離れし、無気力に映っていた。


(なんなの、あの人は……。毎日毎日、社長室のソファに座って古い本を読んでいるだけ。経営の現場にも、社内の協議にも指一本触れようとしないじゃない)


美月の胸に、ふつふつと不満と呆れがこみ上げてくる。


ミカヅキに対する美月の評価は、最初から一貫していた。

「得体の知れない謎の男。立ち居振る舞いと顔だけは無駄に良いけれど、経営の現場では何の役にも立たない、置物のようなお飾り顧問」。


共同経営者だの、会社を守るための『最強の盾』だのという遺言の言葉に惑わされそうになったこともあったが、結局のところ、彼は役員会でも一度も口を開かず、社内の主要プロジェクトにも一切参加しようとしない。


(結局、おじい様が亡くなった混乱に乗じて、菊池家の財産や権力に甘えて居座っているだけなんじゃないかしら……)


そう思い至ると、美月の唇からは皮肉めいた溜息が漏れた。


その時、静かな衣擦れの音とともに、ミカヅキがソファから立ち上がった。


彼は迷いのない足取りで社長室のサイドボードへ向かうと、慣れた手つきでガラスのティーポットを取り出した。お湯を注ぎ、数分待つと、小さな湯気を立てるカップをトレイに乗せ、美月のデスクへと歩み寄ってきた。


トントン、とデスクの脇に静かにカップが置かれる。


緊張感が漂っていた室内に、ふわりと広がったのは、すっきりとしたミントと柑橘系が混ざり合ったような、爽やかなハーブの香りだった。


「……集中しすぎるのは良くない。適度な水分補給と呼吸の乱れを整える時間が必要だ」


ミカヅキの低く澄んだ声が届く。


美月は手を止め、不満を隠そうともしない冷ややかな視線をミカヅキへと向けた。


「三日月さん。前にも言いましたけれど……私、ハーブティーなんて要らないと言っているでしょう?」


「そうだったか」


ミカヅキは表情ひとつ変えず、淡々と答えた。


「だが一口だけでも飲むといい」


「結構です」


美月はハーブティーの入ったカップを、すっと押し返すように手で遠ざけた。


「私はいま、南東アジア案件のデータと契約書の精査で忙しいのです。頼んでもいないハーブティーを運んでくる暇があるなら、少しは特別顧問らしい仕事をしていただいたらいかがですか?」


刺のある美月の言葉。しかし、ミカヅキは怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ冷ややかな藍色の瞳で美月を見つめるだけだった。


「私は私の役割を果たしている。君が目の前の課題に向き合い、正しい判断を下せる環境を整えることも、その一つだ」


「それが『お節介なハーブティーを出すこと』だと言うのなら、本当に笑わせてくださいますわね」


美月は吐き捨てるように言い放ち、再び手元の端末へと視線を落とした。


「もうお下がりくださらない? 私は自分一人の力で、この重大なプロジェクトを成功させなければならないのですから。あなたのような『置物』に構っている時間はありませんの」


「……そうか」


ミカヅキは短く返すと、それ以上何も言わずに引き下がり、再び応接ソファへと戻って静かに洋書を開いた。


残された温かいハーブティー。


美月は意地でもそれに手を触れようとはせず、視線すら合わせないようにして作業を続けた。


自分を「夫」として認めない。彼の差し出す手助けや不気味なお節介には一切頼らない。

自分がこの手で菊池貿易を守り抜き、一人前の経営者として立つこと――それだけが亡き祖父への恩返しであり、この謎の男に対する最大の意地だった。


――しかし。


夜遅くまで及び、静まり返った社長室で一人、疲弊した美月がふと顔を上げた時のことだった。


すでに冷めきっているはずのデスクの脇のカップから、かすかに漂うハーブの香りが、知らず知らずのうちに美月の疲れた胸腔と呼吸をくぐり抜けていた。


「……なによ、これ……」


プレッシャーによる胃の重みと頭痛が、その香りを一口胸に吸い込んだ瞬間、ほんのわずかだけ和らいだような気がした。


(気のせいよ……。あの男が淹れたお茶なんて、ただの葉っぱのお湯じゃない……)


美月は自分の心の小さな揺らぎを打ち消すように首を振り、冷めたカップを見つめた。


美月には、まだ何も見えていなかった。


ミカヅキがなぜ会社や菊池邸の離れで、ことあるごとにハーブティーを差し出してくるのか。

そのハーブが、彼自身の手によって庭のプランターで手塩にかけて育てられたものであることも。そして彼が美月の肌のツヤ、目の下の微かな隈、呼吸の浅さから彼女の疲労度とストレスを正確に見抜き、毎回寸分の狂いもなくブレンドを変えていたということも。


そして何より、美月が「自分の力で乗り切っている」と信じて疑わない南東アジア案件の裏で、データには映らない現地勢力や社内の反乱分子が仕掛けた恐ろしい罠が、すでにミカヅキの手によって静かに潰され始めているということも――。


言葉を交わさず、手柄も語らず、ただ不気味なお節介とすれ違いを繰り返す二人。


互いの距離感を推し量れないまま、噛み合わない奇妙な新婚生活と共同経営の日常が、静かに刻まれていくのだった。


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