第17話 噛み合わない二人
役員会を無傷で乗り切ったという事実は、美月に大きな自信と安堵をもたらしていた。
社内では、亡き政臣会長の孫娘が堂々たる振る舞いで新体制の構想を語り、反発していた重役たちを平伏させたという噂が、まことしやかに囁かれ始めている。
「菊池社長、本日の日中貿易協議会におけるご発言、各社の幹部からも非常に高い評価をいただいております。創業家としての誇りと経営の知見が見事に融合していると」
「ありがとうございます。ですが、まだスタートラインに立ったばかりです。気を引き締めていきましょう」
役員応接室で、秘書や若手幹部からの報告を受ける美月の顔には、凛とした経営者としての気品と、若さゆえの純粋な誇りが満ちていた。
祖父から叩き込まれた帝王学は本物だった。自分の積み重ねてきた努力と覚悟が、確実に会社を動かしている――美月はそう確信していた。
だが、その輝かしい成果のすぐ背後で、どうしても拭い去れない「刺」のように存在している男がいた。
三日月朔夜――ミカヅキ。
彼は「特別顧問」という地位にありながら、役員会以降も社内で積極的に発言することはなく、自ら主導権を握ろうとする素振りすら見せなかった。常に美月の数歩後ろに控え、静かな影のように佇んでいるだけだった。
(何なの……? 共同経営者だなんて大層な遺言を残しておいて、結局この人は何もしていないじゃない……)
社長室のデスクで資料を整理しながら、美月はチラリとソファに座っているミカヅキに不満げな視線を送った。
ミカヅキは膝の上に一冊の古びた洋書を広げ、静かにページをめくっている。その姿は絵画のように美しいが、同時にこのビジネスの最前線においてはあまりにも浮世離れし、無気力に見えた。
(おじい様はどうして、こんな男の人を私に引き合わせたのかしら。会社を守るための『盾』だなんて……結局、おじい様が過保護すぎただけなんじゃないの? 私一人でも、ちゃんとやれているわ)
美月は小さく鼻を鳴らすと、手元の案件ファイルを開いた。
「三日月さん」
美月の冷ややかな呼びかけに、ミカヅキは静かに視線を上げた。夜の底のように澄んだ藍色の瞳が、美月を捉える。
「何かね、美月さん」
「来週から始まる、南東アジア方面の新たな物流ルート開拓に関するプロジェクトですが……私主導で進めさせていただきます。あなたには顧問として名前を貸していただくだけで結構です。現場の指揮や交渉は、すべて私が執りますので」
美月の言葉は、牽制と自己主張に満ちていた。自分は彼の手助けなど必要としておらず、夫としてもビジネスパートナーとしても寄りかかるつもりはないのだと、明確に線を引くための宣言だった。
対するミカヅキは、眉ひとつ動かさなかった。
「分かった。君の好きにするといい。……ただし、南東アジアの港湾利権には、表面化していない古い慣習や危険な利権が絡んでいる。現地の提携候補である『ヴェロン・ホールディングス』との交渉には、十分な注意を払うべきだ」
「ヴェロン社ですか? 財務状況も監査報告も完璧でしたけれど。私は資料を隅々まで精読しています。心配には及びません」
美月はすかさず言い返した。ミカヅキの忠告を、自分の能力に対する疑いの表れだと受け取ったからだ。
「……そうか。ならば私の杞憂だな」
ミカヅキはそれ以上反論せず、再び手元の本へと目を落とした。
そのどこまでも冷ややかで、波風を立てない態度が、かえって美月の胸の中の苛立ちを煽った。
(なによ……何も手を出さないくせに、口先だけで不安を煽るようなことばかり言って……)
――そして、その日の夜。菊池邸の離れ。
二人の「新婚生活」は、どこまでも冷徹な無関心とすれ違いに支配されていた。
美月はミカヅキとの会話を最低限に留め、夕食も時間をずらして自室で摂るようにしていた。ミカヅキもそれを咎めることなく、ただ淡々と静かな気配で離れに佇んでいた。
深夜、美月がバスタイムを終え、濡れた髪を拭きながら廊下を歩いていた時のことだ。
ふと、離れの書斎の扉が微かに開いているのに気づいた。
中を覗くと、ミカヅキが一人、月光の差し込む窓辺に立っていた。
彼の前には、小さな木箱が置かれている。その手元で、一枚の古い和紙――かすかに古色を帯びた「短冊」のようなものが、柔らかな光を放っているように見えた。
(……え? なにか光って……?)
美月が不審に思い、足音を殺して近づこうとしたその瞬間。
スッ……と、ミカヅキの手の中で短冊が消えた。まるで最初から何もなかったかのように、彼の長くて美しい指先には何も握られていない。
ミカヅキは振り返ることもなく、静かな声で呟いた。
「……気配を殺すのが下手だな、美月さん」
「っ……! 盗み聞きするつもりじゃありませんわ!」
美月は慌てて気丈な態度を取り、ドアの隙間から胸を張った。
「あなたがこんな夜更けに何をしているのか不気味に思っただけです。……いまの手元、何か持っていらっしゃらなかった?」
ミカヅキはゆっくりと振り返り、月光を背に受けて美月を見つめた。その藍色の瞳には、一切の情動が浮かんでいない。
「何も。古い思い出の品を整理していただけだ」
「思い出……? あなた、おじい様以外に古い知り合いなんていないでしょう? 経歴だって怪しいことばかりで……社内でもあなたの過去を知る人間は誰もいません」
美月はここぞとばかりに、日頃溜め込んでいた疑問と警戒心をぶつけた。
「あなたは何者なの? なぜおじい様はあなたにあんな遺言を残したの? 財産目当てじゃないと言うなら、どうしてこんな不気味な真似をしてまで菊池家に居座るのよ!」
詰問する美月の激しい瞳を、ミカヅキはただ静かに見つめ返していた。
怒るでもなく、動揺するでもなく、解説を与えるでもない。その絶対的な沈黙と拒絶が、美月には恐ろしかった。
「……君がそれを知る必要はない」
ミカヅキの低く澄んだ声が、静かな室内に響く。
「君はただ、自分自身が信じる経営者の道を歩めばいい。私を夫と認めず、疑い、遠ざけたままで構わない。……だが、私は政臣会長との約定を果たし続ける。それだけだ」
「約定、約定って……おじい様の名前を出せば私が黙るとでも思っているの!?」
美月は悔しさに唇を噛みしめ、強く踏み出すとミカヅキを指差し、宣言した。
「いいでしょう! あなたが何も語らないなら、私は私のやり方でこの会社を完璧に収めてみせます! あなたの助けなんて一度たりとも必要としませんから!」
叫ぶように言い捨てると、美月は踵を返し、自室へと立ち去った。
バタンと重い音を立てて閉まる扉。
一人残された暗がりの中、ミカヅキはそっと胸元に手を当てた。
衣服の奥、ミカヅキの肌の近くに静かに収められた「3枚目の短冊」。
政臣と交わした最後の誓い――「美月が自らの足で立ち、一人前の経営者として安泰を得るその日まで、彼女の影となり護り抜く」という約束の印。
美月が自分を激しく拒絶し、疑い、突き放せば突き放すほど、彼女自身の「一人立ち」への意志は強く研ぎ澄まされていく。
「……それでいい、美月さん」
ミカヅキは暗闇の中でポツリと呟いた。
「私を夫と認める必要などない。君が私を捨て、自らの力で飛翔する日こそが……私の役目の終わりなのだから」
美月の燃えるような誇りと意地。
ミカヅキの決して報われることを望まぬ献身と冷徹な誓い。
すれ違ったまま重なり合わない二人の夜が、静かに深まっていった。




