第16話 役員会と見えない手
東京臨海部にそびえ立つ、菊池貿易本社ビル。
最上階に位置する大役員会議室には、息が詰まるほどの重苦しい緊張感が充満していた。
巨大な楕円形の漆黒のテーブルを囲むのは、創業者・菊池政臣とともにこの巨大総合物流企業を叩き上げてきた重役たちや、百戦錬磨の取締役たちだ。その全員が黒やダークグレーのスーツに身を包み、鋭い眼差しで室内の空気を張り詰めさせていた。
「――以上が、故・菊池政臣会長の遺言に基づく新体制、ならびに今後の事業計画でございます」
役員室の中央、社長席に座る菊池美月は、背筋をピンと伸ばし、凛とした通る声でスピーチを締めくくった。
美月の手元にある原稿は、昨夜遅くまで彼女が一人で睡魔と戦い、何度も推敲を重ねて作り上げたものだった。祖父から叩き込まれてきた帝王学と経営の心得、そして何千人もの社員とその家族の生活を守るという固い覚悟。透き通るような美しい肌に、強い意志を宿した瞳。美月は気丈に振る舞いながら、心の中では激しい鼓動を抑え込もうと必死だった。
(来る……っ! 絶対に、反発や激しい追及が来る……!)
美月は膝の上で固く握りしめた手にぎゅっと力を込めた。
この役員会に臨む前、美月は旧知の顧問弁護士や信頼できる幹部から社内の情勢を聞かされていた。政臣という絶対的な重石が取れた今、反美月派の筆頭である専務取締役・黒川をはじめとする過激派の役員たちが、若い美月の就任に猛反発し、役員会で徹底的に叩いて辞任に追い込もうと画策している、と。
美月は今日、怒号や鋭い詰問が飛び交う殺伐とした「戦場」になることを覚悟していたのだ。
しかし――。
「……ふむ。菊池新社長のお考え、しかと承りました」
静寂を破ったのは、真っ先に美月を糾弾するはずだった黒川専務の声だった。
黒川はいつもなら不満を露わにして威圧的な態度をとる男だったが、なぜか今日の彼の額には微かな汗が浮かんでおり、その表情は硬くこわばっていた。それどころか、美月と目が合うと咄嗟に視線を泳がせ、恐縮したように浅く頭を下げたのだ。
「社長の提示された新年度の物流ネットワーク再編案、極めて現実적かつ合理的な判断かと存じます。……我々取締役会としても、全面的に新体制を支持し、サポートさせていただく所存です」
「え……?」
美月は思わず瞳を丸くしそうになり、慌てて表情を作った。
黒川だけではない。他の反発派と言われていた役員たちも、誰一人として美月の計画に異議を唱えようとせず、まるで何かに怯えるように静まり返り、次々と賛同の意を示していく。
(な、なにが起きているの……? 激しい追及どころか、誰も反対しないなんて……)
美月の胸に、大きな困惑が広がった。
(……もしかして、私のスピーチがそれほど完璧だったの……? 昨夜遅くまで必死に読み込んだ財務データと、おじい様から教わった経営理念を込めたプレゼンが、この経験豊富な役員たちの心を動かしたのかしら……?)
幼い頃から叩き込まれてきた自分の努力が実を結んだのだという、小さな自負と安堵が美月の胸を包み込んだ。
ふと、美月は自分の斜め後ろに佇む男――特別顧問として同席しているミカヅキに視線を向けた。
ミカヅキは完璧な仕立てのスーツを纏い、感情を一切排した冷ややかな顔で静かに佇んでいた。会議中、彼は一度も発言せず、ただ影のように美月の背後に立っていただけだった。
(ふん……やっぱり、この人は何もしていないじゃない。ただ後ろに立って、格好だけをつけているだけ。私が一人で戦って、自分の力で役員会を抑え込んだのよ)
美月はミカヅキの無表情な横顔を一瞥すると、心の中で小さく鼻を鳴らした。自分を「夫」として認めず、彼の力を頼らないという意地が、美月の胸を誇らしげに満たしていた。
しかし――美月には、そしてこの場にいる誰一人として知る由もなかった。
この役員会が始まる前日、水面下で何が起きていたのかを。
――開会の前夜。雨が静かに降る都内の高級料亭。
暗がりの中に佇む離れの個室で、黒川専務は数名の反美月派の役員たちを集め、盃を交わしながら激しい鼻息を荒らげていた。
「いいか! 明日の役員会が勝負だ! 会長が亡くなった今、あの幼い娘に会社が務まるはずがない! 遺言の『結婚』だの『解散』だのという脅しに怯える必要はない。徹底的に数字の矛盾を突き、美月を問い詰めて自ら身を引かせるのだ!」
「そうですな! 三日月はお飾りだ。二人まとめて叩き潰してやりましょう!」
悪巧みの笑い声が部屋に満ちかけた、その瞬間だった。
スッ……と、気配もなく個室の襖が開いた。
「……だ、誰だ貴様! 無礼だぞ!」
怒鳴りつけようとした黒川の言葉が、喉の奥で凍りついた。
部屋に入ってきたのは、漆黒のスーツを纏った不老の男――ミカヅキであった。
ミカヅキは一切の足音を立てずに室内に歩み寄ると、静かな動作で黒川の目の前に一冊の分厚い革張りのファイルを置いた。
「三日月……!? なんだ貴様、我々の会合に何の発言権があって――」
「黒川専務」
ミカヅキの低く澄んだ声が、部屋の温度を瞬時に氷点下まで引き下げた。夜の底のように深い藍色の瞳が、黒川の魂を直接見透かすように射抜く。
「君が過去五年にわたり、東南アジアの現地法人を経由して不正に流用してきた三億四千万円の特別損失データだ。……それから、そちらの取締役がインサイダー取引で得た不当利益の口座記録も、すべてここにある」
「な……っ!? な、なんだと……っ!?」
黒川たちの顔から、一瞬で血の気が引いた。
長年、完璧に隠蔽してきたはずの極秘の不正。警察や国税すら掴んでいないはずの決定的な証拠が、そこには寸分の狂いもなく整理されていた。
「な、なぜそれを……貴様、一体何者だ……!?」
震え上がる黒川に対し、ミカヅキは表情ひとつ変えず、淡々と冷徹な宣告を下した。
「政臣会長は、君たちの醜い欲望をすべて見抜いていた。……明日、美月さんが臨む役員会において、一切の無用な雑音を立てず、彼女の決定に全面従うこと。それが、君たちが明日以降もその地位と自由を保つための、唯一の条件だ」
「く……っ! 貴様……脅すつもりか!」
激昂して立ち上がろうとした黒川の肩を、ミカヅキの透き通るような手が軽く掠めた。
その瞬間、黒川は全身の毛穴が逆立つような、圧倒的な「死」の気配と絶望的な恐怖に押し潰された。人間が逆らえるような存在ではない――目の前にいるのは、生き物としての次元が違う何かだという本能的な恐怖。
「脅しではない。政臣会長との約束を果たしているだけだ」
ミカヅキは冷ややかに言い放つと、背を向けた。
「美月さんは、自らの力でこの会社を率いるに足る強い意志と気品を持っている。……それを汚す者は、誰であれ容赦はしない」
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「以上を持ちまして、本日の役員会を終了いたします」
美月の宣言とともに、拍手が巻き起こる。役員たちは皆、どこか安堵したような、しかし緊張感を残した表情で深々と頭を下げて退出していった。
無事に最大の試練を乗り切った美月は、誰もいなくなった会議室で大きく息を吐き出し、誇らしげに微笑んだ。
(やったわ……! 私の言葉が、私の準備が彼らに届いたのね! おじい様……私、ちゃんと一人で立てたわ!)
美月は満足感に胸を躍らせながら、荷物をまとめて立ち上がった。
その背後で、ミカヅキは相変わらず何も語らず、ただ静かに深遠な藍色の瞳で、美月の誇らしげな背中を見つめていた。
自分が裏で施した恐ろしいほどの暗躍も、冷徹な根回しも、一切彼女に知らせる気などないまま。
二人の間にある圧倒的な事実のズレを抱えたまま、菊池貿易の新たな歴史が静かに動き出していた。




