第15話 最悪の新婚生活
波乱を含んだあの日から数日。
菊池邸の静謐な和風建築と、広大な庭園を臨む離れの生活空間において、菊池美月とミカヅキの奇妙な「夫婦生活」が幕を開けた。
対外的には、亡き創業者・菊池政臣の遺言に基づき、若き後継者である菊池美月と、生前の政臣が絶大な信頼を寄せていた特別顧問・三日月朔夜が電撃的に入籍し、共同経営体制を発足させたというニュースが社内外へ駆け巡っていた。
戸籍上の手続きは滞りなく行われたものの、美月は創業家の看板である「菊池」の姓を守り、ミカヅキもまた長年社内で親しまれてきた旧姓の「三日月」をビジネスネームとしてそのまま使用することとなった。親族や役員たちの野心や不満を「会社解散」という遺言の盾で力ずくで押さえ込んだ状態での、あまりにも唐突な新体制の始動であった。
だが、菊池邸の門を潜り、一歩プライベートな空間に足を踏み入れれば、そこには新婚の甘い気配など微塵も存在しなかった。
二人の居住エリアとして整えられた離れ。美月は意図的にミカヅキとの距離を置き、彼と同じ部屋に留まることすら極力避けていた。
「……はぁ」
自室のデスクで、美月はパソコンの画面に並ぶ膨大な資料と睨み合いながら、重い息を吐き出した。
明日から始まる、新体制初となる役員会および主要社員への所信表明。祖父・政臣から幼少期より帝王学や経営の基礎を叩き込まれてきたとはいえ、これまで現場の最前線に立ったことのない美月にとって、何千人もの社員の視線と、不満を溜め込んだ役員たちの圧迫感に晒されるプレッシャーは想像を絶するものだった。
「私がしっかりしなきゃダメなのよ……。おじい様が遺してくれたこの会社を、私が私の手で守らなきゃ……」
美月は自分に言い聞かせるように呟き、目の前の財務諸表や事業計画書に再び目を走らせた。
(当たり前よ……。おじい様がどれだけ信頼していた人だとしても、私にとっては数日前に現れたばかりの謎の男……。いくら会社を守るための『契約』だからって、あの人を夫として認めるなんて絶対に無理。あの人に頼る気なんてさらさらないわ)
美月の胸中を占めていたのは、亡き祖父への深い情愛と、自らの足で立たなければならないという誇り、そして何よりもミカヅキに対する強い疑念だった。
どこからともなく現れ、絶大な影響力を持つ遺言書と共に菊池家に上がり込んできた不老の男。
見目麗しく、立ち居振る舞いは完璧だが、その表情には温かい人間味というものが一切感じられない。
(あの人は……本当は何が目的なの? おじい様の名誉? それとも菊池貿易の持つ膨大な利権や財産……? 私を無力なお飾り社長に仕立て上げて、裏で会社を意のままに操るつもりなんじゃないかしら……)
そう考えれば考えるほど、美月の胸の中で警戒心の炎が激しく燃え上がった。
その時だった。
「……美月さん」
トントン、と静かなノックの音に続いて、低い、けれどどこか温度の感じられない澄んだ声が引き戸越しに響いた。
美月は無意識に肩を跳ねさせ、咄嗟に背筋を硬直させた。PC画面の資料をサッと隠すように手元を引き締め、警戒感を全開にした視線を入口へ向ける。
「……何でしょうか、三日月さん。私はいま、明日の役員会の原稿チェックと提案書の精査で忙しいのですけれど」
引き戸が滑らかに開くと、そこには普段の完璧なダークスーツを脱ぎ、シンプルなダークグレーのシャツを纏ったミカヅキの姿があった。
生活感というものがまるで存在しない男だった。乱れのない髪、一切の隙がない佇まい、そして夜の底のように深く澄んだ藍色の瞳。
ミカヅキは美月の刺のある言葉に対しても表情ひとつ変えず、手にしたトレイを静かにデスクの端に置いた。そこには湯気を立てる温かいハーブティーと、頼んでもいない軽い夜食が載せられていた。
「夜更かしは体に毒だ。明日倒れられては困るのでね。適当なところで切り上げて寝るといい」
ミカヅキの声は淡々としており、そこには心配や慈しみといった感情の色は薄かった。
それどころか、ミカヅキは美月のノートパソコンの画面や、デスク上に広げられた機密資料の束を一瞬だけチラリと見やり、特に手助けをするわけでも、具体的な助言を与えるわけでもなく、ただ静かに佇んでいた。
美月の胸に、ムッとした激しい苛立ちと不快感がこみ上げてきた。
(なんなの……? 手伝う気もないくせに、人の作業を上から覗き込むみたいにして……。挙句の果てには早く寝ろだなんて、子ども扱いしないでほしいわ)
美月にとって、ミカヅキのその行動は「親身な気遣い」などではなく、「自分の能力を値踏みし、監視するための行動」にしか映っていなかった。
共同経営者という大層な肩書を提示されながら、実際の仕事現場では具体的な提案も出さず、ただ影のように付き従うだけ。それなのにプライベートな空間では、まるで主であるかのように振る舞い、こちらの行動をコントロールしようとしてくる。
美月はハーブティーに一切手を触れようとせず、トレイを少し遠ざけるように押しやった。
「お気遣いは結構です。自分の体調管理くらい、自分でできます。それに、私が明日の役員会で失敗して困るのは、私自身です。あなたに手取り足取り干渉していただく筋合いはありません」
きっぱりと言い放つ美月の瞳には、凛とした拒絶の光が宿っていた。
「私はおじい様から、菊池の跡取りとして必要な帝王学も経営の心得も教わってきました。あなたのような見知らぬ方に甘やかしてもらう必要も、監視される必要もありません」
美月の強い言葉に対しても、ミカヅキは怒るでもなく、弁明するでもなかった。
ただ静かに藍色の瞳を細めると、表情のない顔のまま、軽く一礼して引き戸へと向かった。
「そうか。ならば邪魔をした」
すっと静かに戸が閉まり、廊下を遠ざかる足音が消えると、室内に再び重々しい静寂が戻った。
美月はぽつんとデスクに残されたカップを見つめ、不満げに鼻を鳴らした。
「……本当に、何をしに来たのかしら。お節介で、押し付けがましくて……本当に嫌な人」
美月は吐き捨てるように呟くと、冷め始めたハーブティーを無視して、再びPCの画面へと視線を戻した。
明日、何千人もの社員を抱える菊池貿易の役員会という戦場へ足を踏み入れる。そこには、若き美月をあからさまに軽視し、隙があれば引きずり降ろそうと企む重役たちが待ち構えているはずだ。
(負けないわ。おじい様の会社は、私が絶対に守ってみせる。あの男の手なんて借りなくても、私一人で……!)
美月は拳を握りしめ、睡魔と戦いながら深夜まで資料の読み込みを続けた。
自分を「夫として認めない」と突っぱねた不気味で冷酷な男。
何の手助けもしてくれないミカヅキへの不信感を募らせながら、美月は一人で明日へ向かう覚悟を固めていたのだった。




