5. 米沢の黄金
第5話:米沢の黄金
どれほどの泥の海を渡り、どれほどの悪路に呪詛を吐いただろう。
会津の険しい峠を這うようにして越え、鬱蒼たる山林を抜けたその瞬間、俺たちの行く手を阻み続けていた重苦しい『オリエンタルの雲』が、にわかに割れた。
雲の裂け目から差し込んだのは、ぎらぎらとした夏の太陽ではない。東洋の湿気を含んだ空気に柔らかく濾過された、眩いばかりの黄金の光だった。
「――オー!」
背後で、イザベラ・バードが乗馬の引き綱を強く引き絞り、短く息をのむ音が聞こえた。
視界が開けた高台の上。そこから眼下に広がっていたのは、言葉を失うほどに完璧な、緑と黄金の織り成す大盆地――山形は米沢、置賜の平野であった。
見渡す限り、瑞々しい青葉が風にさざめく水田の海が広がり、その間を縫うように、美しく手入れされた桑畑や果樹園がどこまでも整然と並んでいる。点在する農家はどれも立派な白壁と黒い瓦屋根を持ち、生垣は一分の隙もなく切り揃えられていた。背後にそびえる青い山々と、天空の黄金の雲が、そのすべてを一枚の巨大な絵画のように額装している。
「なんてこと……。ミスター・イトー、見てごらんなさい。ここは、アジアの最果てで見つけた『エデンの園』だわ!」
イザベラは、まるで恋に落ちた少女のように青い瞳を輝かせ、馬の上で狂ったようにスケッチブックにペンを走らせ始めた。
「これほど豊かで、これほど清潔で、これほど美しい農村を、私はヨーロッパでも見たことがないわ。衣服は破れ、ノミに怯え、泥にまみれた過酷な旅の果てに、こんな天国が待っていたなんて……。私はこの地を『東洋のアルカディア(桃源郷)』と名付けるわ!」
彼女のペンは止まらない。史実に残る、最大級の賛辞がそのノートに刻まれていく。
しかし、俺――伊藤鶴吉は、特注の乗馬ブーツについた泥を忌々しげに払うと、ふんと鼻で笑って、冷ややかにその熱狂を突き放した。
「アルカディア、ですか。西の国のお嬢様は、ずいぶんお気楽な名前をつける」
「あら、不満かしら? この美しさがあなたには分からないの、ミスター・イトー」
「美しさは分かりますよ。だがね、バードさん。あんたはまた、目に見える『結果』だけを見て感動している」
俺は馬を進め、なだらかな坂道を盆地へと下りながら、水田のあぜ道で腰を深く曲げている農民たちを指差した。
「よお opinion(意見)を聞きなさい。この美しい風景は、天から降ってきた楽園でもなければ、神様が気まぐれに作った庭園でもない。この国で一番しぶとくて、一番強欲で、一番働き者の『百姓たちの血と汗の結晶』ですよ」
俺の声は、夏の羽虫の羽音の中に冷たく響いた。
「見てみなさい、あの泥まみれの手を。彼らは夜明け前から日暮れまで、あの冷たい泥に足を突っ込んで、一本一本手作業で草をむしり、虫を払い、ミリ単位で水の深さを管理してるんだ。桑の葉一枚、果物一つ育てるのにも、気が遠くなるような緻密な計算と、気の遠くなるような重労働が詰まっている。日本の農村が美しいのは、自然が豊かだからじゃない。人間が狂ったような執念で、自然をねじ伏せて『芸術』に変えちまったからだ」
イザベラはペンを止め、俺の横顔をじっと見つめた。
俺の言葉は、彼女が抱いたロマンチックな幻想を剥ぎ取り、その裏にある、民衆の泥臭くも圧倒的な生命力を生々しく露わにしてみせた。
「彼らは貧しいかもしれない。西洋の学問なんか何も知らないかもしれない。だが、自分の土地を耕し、自分の家族を養うために、誰に命令されるでもなく完璧な仕事をこなす。支配層(両班)に搾取されるのを恐れてあえて泥の中で眠る国とは違う、これが、四民平等になった明治の日本の、本物の百姓の底力だ」
沈黙が流れた。
イザベラは再び眼下の盆地を見つめ、今度はゆっくりと、敬意を込めて深く頷いた。
「……そうね。あなたの言う通りだわ、ミスター・イトー。私はただの景色を見ていた。でも、あなたはそこに生きる『人間の魂』を翻訳してくれた。言葉の裏にある真実をすくい上げる――あなたは本当に、恐ろしいほどのインタープリターね」
「月給十二ドルの仕事ですから。あんたが綺麗なおべっかだけで満足して帰っちゃ、俺の仕立てたツイードが泣きますよ」
その夜、米沢の清潔な旅籠に落ち着いた俺たちは、地元の豊かな米と、採れたての瑞々しい果物を、囲炉裏端で堪能した。ノミの一匹も出ない快適な部屋で、イザベラは満足そうに紅茶(俺がハッカの葉を添えて淹れた特製だ)をすすっている。
テラスに出て、夜の風に吹かれながら、俺は遠く暮れていく置賜盆地を眺めていた。
空には、昼間の黄金色を失った『オリエンタルの雲』が、夜の帳に溶け込むように静かに流れている。
「ミスター・イトー、何を考えているの?」
イザベラが、ノートを閉じて俺の隣に並んだ。
「なぁに、アルカディア、ですか」
俺はニヒルな笑みを浮かべ、キセルに火をつけた。
「この美しい国も、いつまで持つかねぇ、と思ってな」
「どういう意味?」
「今、東京や横浜は、あんたの国の真似をして、古いものをどんどん壊して煙突を建て、煤煙を撒き散らしている。いずれこの奥地にも、西洋化の波ってやつが押し寄せる。そうなれば、この泥臭くて、緻密で、美しい百姓たちの楽園も、あっという間に消えてなくなっちまうかもしれない」
二十歳の俺の胸中にある、明治という激動の時代に対する、乾いたニヒリズム。
急速に変わりゆく東洋の片隅で、消えゆく美しさを見つめる俺の視線に、イザベラは優しく、しかし確固たる意志の籠もった声を重ねた。
「だからこそよ、ミスター・イトー。だからこそ、私たちが今、誰も通っていない道を歩き、この目で見て、ペンで記録を残すのよ。世界がこの美しさを忘れてしまわないように。……ねえ、そうでしょう?」
俺はキセルの煙を、夜の雲に向けて静かに吹き出した。
「――へっ。全くだ。お転婆でお嬢様な割には、たまにはいいことを言う」
俺はキセルを仕舞うと、自慢の磨き上げられた黒ブーツの踵を軽く鳴らした。
「さあ、おセンチな時間は終わりだ。明日はさらに北、秋田の険しい泥道が待っています。しっかり寝ておきなさい、バードさん。俺の先導は、容赦がありませんからね」
「ええ、望むところよ。私の、世界一冷徹で最高のインタープリター!」
夜空を流れる東洋の雲の下。二十歳の生意気な天才通訳と、その言葉に導かれ、日本の素顔を深く愛し始めた英国レディの馬車は、消えゆく美しさをその胸に刻み込むため、さらなる北の奥地へと突き進んでいく。




