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天才インタープリター・伊藤鶴吉(イザベラ・バードを「未踏の旅路」へ導いた男)  作者: 東曌


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6. 秋田の国境

第6話:秋田の国境


 山形と秋田の国境に位置する「院内峠(いんないとうげ)」は、旅人の生気を毟(むし)り取るために存在するかのような難所であった。


 七月上旬、空を圧する『オリエンタルの雲』は、容赦のない集中豪雨を秋田の山道に叩きつけていた。

数日来の大雨を吸った山の斜面は各所で崩落し、道はもはや道ではない。地元の案内人が「馬ではこれ以上進めねえ」と首を振ったのは、峠の八合目付近だった。


「ミスター・イトー、馬が使えないなら、私たちはこの嵐の中で立ち往生かしら?」


 イザベラ・バードは、泥水に洗われる乗馬ズボンを濡らしながら、冷たい雨に唇を震わせていた。


 だが、ワシ、伊藤鶴吉は、すでに次の手を打っていた。現地の泥に慣れた人足の親頭(おやがしら)の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで交渉し、馬の代わりに、足腰の強い二頭の「荷牛(にうし)」を急遽手配させたのだ。


「バードさん、こいつに乗ってください。日本の牛は泥に強い。不格好ですが、背中は馬より頑丈だ」


 イザベラを牛の背に揺らし、俺自身は徒歩で進むことを選んだ。


 一歩歩くたびに、特注の牛革ブーツが膝まで泥濘(ぬかるみ)に沈み、引き抜くたびに凄まじい体力が奪われる。自慢のツイードのジャケットは雨を吸って、まるで濡れた畳を背負っているかのように重い。


 ロンドンの気品も、二十歳のプライドも、等しく秋田の泥の中に埋没していくような、気の遠くなる行軍だった。


 ようやく峠を越え、秋田側の最初の宿場町である院内(いんない)の入り口が見えた時、俺は人足たちに命じて、一度足を止めさせた。


「おい、ミスター・イトー。こんな雨の中で何をするの? 早く宿へ入りましょう」


「言ったでしょう、バードさん。俺はインタープリターだ。おべっか使いの通弁じゃない」


 俺は雨の避かる大樹の陰で、懐から乾いた布を取り出すと、泥まみれになったジャケットの汚れを丁寧に拭い、首元をきっちりと正した。さらに、泥だらけの黒革ブーツを、持参したブラシと水で、意地でも黒光りするまで磨き上げた。

二十歳の若造が、一瞬にして「一流ホテルの専属通訳」としての威厳を取り戻していく。

「これから入るのは、秋田の役所と警察だ。泥人形みたいな格好で俺たちが現れてみなさい。日本の役人は『怪しい異人と浮浪者の一団』として俺たちを不当に足止めする。俺がこうして完璧なドレスコードを守ることは、あんたの身の安全を守るための、最初の交渉(翻訳)なんですよ」


 イザベラは、雨に濡れた顔で俺の横顔をじっと見つめ、小さく息を漏らした。

「……衣服を整えることが、最大の防衛。本当に、抜け目のない男ね、あなたは」

 宿場町に入ると、黒い制服に身を包み、腰にサーベルを帯びた三人の男たちが、行く手を阻むように立ちはだかった。

 明治十一年の地方警察――彼らは全員、ほんの数年前まで刀を差して戦っていた、本物の士族(サムライ)の生き残りである。その眼光は鋭く、冷徹で、獲物を見据えるような凄みがあった。

「止まれ。何者だ。ここは外国人の無断立ち入りは禁じられている」

 巡査の一人が、威圧的な声を放つ。当時の日本の警察は、地方の庶民にとって「泣く子も黙るお上」そのものだった。

 だが、俺は一歩も引かなかった。ピカピカに磨き直したブーツの踵を、石畳にパチンと響かせて一礼する。

「お役目ご苦労様です。こちらは英国地理学協会のイザベラ・バード婦人。私は随行通訳の伊藤鶴吉。内務省より発給された、公式の旅行免許状であります」

 俺は懐から、一分の濡れもなく保管していた、内務省の巨大な朱印が押された書類を堂々と差し出した。

 巡査たちは書類を手に取り、その文面を確認した。内務省の命令――その重みを、元武士である彼らが理解せぬはずがない。

 次の瞬間、彼らの態度が劇的に変わった。

 先頭の巡査長が、カチリとブーツの踵を鳴らし、完璧な挙手敬礼を俺たちに送ったのだ。そして、驚くほど流暢な、しかし硬派な英語でこう言った。

「失礼いたしました、バード婦人。内務卿の命、確かに確認いたしました。これより我が分署が、貴女の秋田領内における安全を完璧に警護いたします。ようこそ、秋田へ」

 イザベラは驚愕のあまり、牛の背の上で目を丸くした。

 彼らはすぐに、宿場の中で最も安全で格式の高い本陣(宿)を手配し、俺たちのトランクを自らの手で恭しく運び始めた。

 その夜。警察が用意してくれた、ノミ一匹いない清潔な部屋の囲炉裏端で、イザベラはノートに驚きを書き殴っていた。

「信じられないわ、ミスター・イトー。ロンドンの警察だって、見ず知らずの東洋人の女性に対して、これほど洗練された礼儀正しさと、迅速な対応はしてくれないわ。彼らは一体、何者なの? 日本の地方警察は、なぜこれほどまでに規律が正しいの?」

 俺は囲炉裏の火で乾かしたツイードのジャケットを眺めながら、キセルに火をつけた。

「彼らは、少し前まで『武士(サムライ)』と呼ばれていた人種ですよ、バードさん」

「サムライ……。あの、刀を持った戦士たちのこと?」

「ええ。明治維新で刀を奪われ、特権を失い、時代に置いていかれた男たちだ。だがね、彼らは刀を奪われても、その胸の中にある『誇り』までは捨てちゃいなかった。今は黒い制服を着て、サーベルを腰にぶら下げ、新しい国家の秩序を守るために命を懸けている。だからこそ、国賓に準ずるあんたに対し、一分の隙もない完璧な規律で、日本の品格を証明してみせたんだ」

 キセルの煙が、部屋の天井へと静かに上っていく。

 言葉を訳すのではない。彼らの、無言の背中にある「消えゆくサムライの誇り」を、イザベラの知性に届くように翻訳する。それこそが、月給十二ドルの俺の仕事だった。

「……国が変わり、形が変わっても、死なない精神があるのね」


 イザベラは、窓の外を見つめた。

 激しかった雨は上がり、夜の秋田の空には、やはり不穏な『オリエンタルの雲』が渦巻いている。だが、その暗闇の宿場町を、巡査たちが持つ提灯の明かりが、等間隔で、規則正しく巡回していくのが見えた。彼らがいる限り、この未開の奥地であっても、治安という名の奇跡が保障されているのだ。


「ええ。だからこの旅は面白い。さあ、明日は秋田の市街地へ向けてさらに進みますよ。風邪をひいている暇はありません、バードさん」


「ええ、分かっているわ。私の、世界一誇り高いインタープリター」


 東洋の雲の下、巡査たちの足音と、二十歳の通訳の冷徹な意志に守られながら、英国レディの「未踏の旅路」は、さらに深く、北の核心へと突き進んでいく。

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