7. 湯煙の境界
第7話:湯煙の境界
秋田の奥地へと這入るにつれ、街道の空気はますますねっとりとした泥の匂いを帯びていった。
空を覆う『オリエンタルの雲』は低く、地を這う湿気と混ざり合って、旅籠の薄暗い廊下にまで染み込んでくる。院内の峻烈な峠を越え、命からがら転がり込んだ大館付近の宿場町。そこで俺たちを待っていたのは、大自然の暴力よりもはるかに性質の悪い、人間の「過剰な好奇心」という名の怪物であった。
「……ミスター・イトー。これ、どうにかしてちょうだい。私は頭がおかしくなりそうだわ」
旅籠の二階、割り当てられた八畳間の片隅で、イザベラ・バードはイギリス製の折りたたみベッドの上に縮こまり、絞り出すような声で俺に訴えた。
部屋の外、廊下からは「異人の女だ!」「背が高いぞ!」「髪が赤い!」と、老若男女の地鳴りのようなざわめきが絶え間なく響いている。当時の地方民にとって、白人の女性――しかも四十六歳のお嬢様など、一生に一度拝めるかどうかの「生きた珍獣」も同然だったのだ。
ふと、部屋を仕切る障子紙に目をやると、プツ、プツ、と不気味な音がした。
見れば、濡れた指先で突かれた障子紙に、次々と小さな穴が開いていく。そしてその無数の穴の向こう側から、ギラギラと湿った「人間の目」が、何十個もこちらを覗き込んでいるのだ。
「プライバシーという概念は、この国には存在しないのかしら! まるで檻の中の見世物小屋の猿になった気分よ!」
ロンドンの淑女が、怒りと恐怖で青ざめている。西洋の「個の尊厳」が、日本の「すべてが地続きの共同体」という土着の因習に真っ向から衝突した瞬間だった。
「だから言ったでしょう、バードさん。ここはお上品な居留地じゃないんだ」
俺――伊藤鶴吉は、完璧に仕立てられたジャケットの襟を正すと、姿見の前で帽子を被り直した。そして、鏡のように磨き上げられた黒革ブーツの踵を、わざと激しく畳に叩きつけた。ドン、と重い音が響き、障子の向こうの目が一瞬、ぎょっと泳ぐ。
「おべっか使いの通弁なら『これも日本の風情です』とでも言って笑うでしょうがね。あいにく、俺は月給十二ドルのインタープリターだ。あんたのプライバシー(領分)を護るのも、俺の仕事のうちですよ」
俺は無造作に障子を開け放った。そこには、廊下を埋め尽くしていた数十人の村人たちが、おっとっと、とドミノ倒しのように転がってきた。
俺は彼らをごみを見るような冷徹な目で見下ろし、日光の時よりもさらにドスの利いた地元の言葉で、鋭く一喝した。
「お前ら、いい加減にしねえか! ここにいらっしゃる御方は、内務卿の朱印を持った英国の国賓だぞ! 昨日の巡査たちに、お前らの不敬な面を一人残らず通報して、お上の牢屋にぶち込んでもらってもいいんだぞ。命が惜しくなきゃ、今すぐ散れ!」
「お上の許可」と「警察」という言葉の威力は、明治初期の地方民にとって絶対だった。群衆は蜘蛛の子を散らすように、慌てて階段を駆け下りて逃げていった。
ようやく静寂を取り戻した部屋で、俺は人心地ついたイザベラを連れ、汗と泥を流すために一階の浴場へと向かった。
だが、その浴場の木扉を開けた瞬間、今度はイザベラが完全に石化した。
「……オウ、マイ……。これは、一体何事かしら」
モウモウと立ち込める湯煙の向こう。そこに広がっていたのは、地元の肥った男も、若い女も、皺くちゃの老人も、小さな子供も、全員が完全に真っ裸のまま、ひとつの大きな湯船に平然と浸かり、今日の天気の世間話をしている光景だった。
まごうことなき、日本の古い「混浴」の文化である。
「ミスター・イトー! 政府は混浴を禁止したと、東京のパークス公使から聞いたわ! なぜこの街の人々は、異性の前で平然と裸を晒しているの!? 彼らには『恥』という倫理がないのかしら!」
イザベラは顔を真っ赤にし、信仰深いキリスト教徒としての拒絶を全身で表した。明治政府が西洋の目を気にしていくら「混浴禁止令」を出したところで、役人の目の届かない秋田の山奥までその法律(近代化)が届くには、まだ何年もかかるのが現実だった。
俺は混乱するイザベラの前にすっと立ち、その視線を遮るように背中を見せた。
「恥がないんじゃない、これが彼らの『当たり前』なんです。だが、あんたがそれを拒む権利もある」
俺は踵を返し、帳場へ向かうと、ソロバンを弾いていた宿の主人の襟髪を、無造作に掴み上げて引きずり出した。
「おい、親父。内務省の免状を持った英国のお嬢様を、このカオスに放り込む気か。東京の法律(禁止令)がここでは通じねえってなら、俺が今からこの宿の法律になってやる」
「な、何をおっしゃいます、通訳の旦那……。混浴はこの土地の昔からの決まりで……」
「うるせえ。今すぐその湯船にいる奴らを全員追い出せ。これから一時間は、この英国婦人の『貸切時間』にする。文句があるなら、今すぐ大館の警察分署から元武士の巡査どもを連れてきて、お前のお粗末な商売ごと法律で叩き直してもらうが、どうする?」
俺の冷徹な脅しと、一分の隙もない仕立て服から漂う威圧感に、宿の主人は完全に縮み上がった。「へい、へい! すぐにいたしますだ!」と、湯船の中の住人たちを大急ぎで追い出しにかかる。
数分後。誰もいなくなった静かな浴場を前に、俺は木扉の横にすっと立ち、腕を組んだ。
「さあ、バードさん。さっさと入りなさい。俺がここで見張りをしている。誰も指一本、中には入れさせやしませんよ」
「……ミスター・イトー。あなた、本当に恐ろしい男ね」
イザベラは呆気にとられながらも、どこか深く安堵したような表情を浮かべ、浴場の中へと消えていった。
トントン、と小気味よい湯の音が響き始める。
俺は仕立ての良いジャケットの袖に触れながら、木扉の前で仁王立ちを続けていた。
言葉が通じない、文化が違うということは、時として泥道よりも険しい暴力になる。その衝突の境界線に立ち、実力とハッタリで雇い主の尊厳(淑女の領分)を完璧にガードしてみせる。それこそが、俺が要求した月給十二ドルの真の価値だった。
湯船に浸かり、ようやく人心地ついたイザベラは、曇りガラスの向こう側に透ける、微動だにせず立つ伊藤の背中の影を見つめていた。
窓の外、秋田の夜空を覆う『オリエンタルの雲』は、日本の古い因習と、歪に突き進む新しい近代の混迷をすべて呑み込むように、静かに、しかし確実に北(津軽)へと流れていく。
二十歳の生意気な天才通訳の背中に、英国レディの揺るぎない、本物の信頼が刻まれた夜だった。




