4. 会津の峠
第4話:会津の峠
下野の国境を越え、会津へと続く山王峠に差し掛かった時、空の『オリエンタルの雲』はついに牙を剥いた。
バケツをひっくり返したような車軸の雨。それは、ただでさえ険しい山道を、一瞬にして泥の濁流へと変えてしまった。道幅は馬一頭がやっと通れるほど。右は切り立った岩壁、左は一歩踏み外せば一巻の終わりの断崖絶壁である。
「ミスター・イトー、前が見えないわ! 馬が、馬の足が滑っている!」
雨の中、イザベラ・バードの悲鳴が混じる。
流石の爆走レディも、この大自然の暴力の前には顔を青ざめさせていた。雨水は彼女の特製ジャケットを容赦なく濡らし、冷たい風が体温を奪っていく。
だが、俺――伊藤鶴吉は、馬の手綱を握り直すと、振り返りもしないで声を張り上げた。
「しっかり手綱を握ってなさい! 弱音を吐くなら、今すぐその馬を捨ててロンドンまで泳いで帰ることだ!」
完璧に仕立てたツイードのジャケットは雨を吸って鉄のように重く、自慢の革ブーツの中はぐちょぐちょの泥水で満ちていた。それでも、俺の目に迷いはなかった。二十歳の意地が、ここで異国の女に無様な姿を見せることを拒んでいた。
命からがら、峠の頂近くにある小さな山間の宿場へ滑り込んだのは、周囲が完全に闇に包まれた頃だった。
そこは、宿場というのもおこがましい、茅葺き屋根の薄暗いボロ宿だった。中央の囲炉裏から上がる煙が煙たく部屋を満たし、壁は煤で真っ黒に汚れている。
イザベラは囲炉裏の火の前に倒れ込むように座り込んだ。彼女が横浜から大事に持ってきた西洋缶詰の革袋を開けると――中は空っぽだった。最後の塩漬けビーフの缶詰は、昨日の昼に底を突いていたのだ。
イギリスお嬢様が愛する白いパンも、上質な牛肉も、温かい紅茶も、この日本の最奥の山村にはひとかけらも存在しない。
「お待たせしましただ。これしかねえですが、食ってくだされ」
宿の腰の曲がった婆様が、お盆に乗せて運んできたのは、三つの器だった。
一つは、大麦の混ざった黒っぽい米飯。
一つは、これまた真っ黒な、具のほとんどない塩辛そうな味噌汁。
そして最後の一つ――それが、小さな器の中で、異様な悪臭を放ちながら糸を引いている「豆の塊」だった。
イザベラはその器を覗き込んだ瞬間、絹のハンカチで鼻を覆い、椅子もないので畳の上で跳びのいた。
「オー、マイ・ゴッド……! ミスター・イトー、これは一体何かしら!? 腐っているわ! 完全に発酵を通り越して、東洋の悪魔が作った毒スープよ! こんな不衛生なもの、人間の食べるものではないわ!」
絶望に叫ぶイザベラを前に、俺は雨水を拭ったジャケットの袖を無造作にまくり上げた。
そして、その「悪臭を放つ豆」の器を取り上げると、箸でぐるぐると、これでもかと勢いよくかき混ぜ始めた。白い糸が幾重にも絡み合い、独特の匂いが囲炉裏の煙と混ざり合って部屋に広がる。
「……ミスター・イトー、あなた正気? それを食べるつもり?」
「当然でしょう」
俺はかき混ぜた納豆を、大麦飯の上に豪快にぶっかけた。そして、箸でそれを一気にかき込み、美味そうに喉の奥へと流し込んだ。さらに、真っ黒な味噌汁をズズッと音を立てて啜る。
「ぷはぁ。美味い。五臓六腑に染み渡る。……バードさん、あんたは大きな勘違いをしている」
俺は箸を置き、囲炉裏の向こうで怯えるイザベラを、冷徹な目で見据えた。
「これは『納豆』という。腐っているんじゃない、生きてるんですよ。あんたら西洋人は、肉の脂と、牛の乳、そしてワインの力で動いている。だが、この国の人間は違う。この『米と塩』、そしてこの発酵した豆の力だけで動いてるんだ」
俺は窓の外、激しい雨の中で、今なお文句一つ言わずに、イザベラの巨大なイギリス製トランクや折りたたみベッドを馬から下ろしている地元の「人足(労働者)」たちを指差した。
「見てみなさい。あの人足たちのふくらはぎを。あんたの国の一流の兵隊だって、あんな岩のような筋肉はしていやしない。彼らは、肉なんか一切食わない。四つん這いになって、膝まで泥に埋まるあの山王峠の絶壁を、あんたの家財道具を担いで一日に何マイルも歩いてるんだ。その凄まじい体力が、どこから湧いてくるか分かるか? ……今、あんたが『悪魔の毒』と呼んだ、この米と味噌汁と、納豆から作られてるんだよ」
イザベラは言葉を失った。
窓の外、雨の中で黙々と働く日本人たちの、彫刻のように引き締まった肉体と、目の前の小さな器を見比べ、彼女の鋭い知性が激しく回転し始めるのが分かった。
言葉の翻訳ではない。これこそが、その土地の「生きる術」を翻訳する、インタープリターの本当の仕事だ。
「この国の人間は、肉を食わねえ代わりに、豆を腐らせてその栄養を何倍にもして身体に取り込む知恵を持ってる。塩分を味噌で補い、悪路を何日も歩き通す。肉がないから、パンがないからと泣き言を言ってこれを拒むのは勝手だが、それじゃああんたは、この国の本当の姿を何一つ見ないまま、ただの『物好きなお姫様』としてロンドンへ帰ることになる」
俺の言葉は、彼女の「旅行家としてのプライド」の核心を真っ向から撃ち抜いた。
イザベラは、じっと納豆を見つめた。唇を強く噛み締め、やがて、覚悟を決めたように、細い白指でスプーンを握り締めた。
「……フンス。私が、ロンドンのただのお気取り屋ですって? 侮らないで、ミスター・イトー。私は誰も通っていない道を歩く女よ」
彼女は意を決し、大麦飯と納豆をほんの少しスプーンですくい、目をつぶって口の中に放り込んだ。
一瞬、彼女の顔が劇的に歪んだ。強烈な粘り気と、未知の風味が口いっぱいに広がったのだろう。喉が拒絶しかけるのを、彼女は強い意志でゴクリと飲み込んだ。
続いて、真っ黒な味噌汁を恐る恐る口に運ぶ。
「……!」
イザベラは目を見開いた。
「塩辛いわ。強烈に塩辛くて、濃厚で……でも、なんだか不思議ね。胃の中に落ちた瞬間から、身体の芯が、じわじわと熱くなってくる。雨で凍えそうだった指先に、血が通っていくのが分かるわ……!」
「そうでしょう。それが米と塩の力だ。日本人はこれで命を繋いできたんだ」
俺はフンと不敵に笑い、自分の茶碗を親父に突き出した。「おかわりだ」と。
イザベラは二口、三口と、今度は躊躇なくスプーンを動かし始めた。
「美味しい、とはまだ言えないわ。でも、身体がこれを求めているのが分かる。すごいわね、ミスター・イトー。あなたは言葉だけでなく、この国の民の『生命の秘密』まで私に翻訳してくれるのね」
「月給十二ドルの仕事ですから。あんたがシャキッとしてもらわなきゃ、俺のブーツの汚れが報われない」
外の雨は、いつしか小降りになっていた。
囲炉裏の煙の向こう、窓の隙間から見上げる夜空には、重苦しかった『オリエンタルの雲』の切れ間から、満天の星空が顔をのぞかせ始めていた。
この峠を越えれば、山々に囲まれた、息をのむほど美しい会津の盆地が広がっている。
「さあ、腹が膨れたら明日の準備だ。明日は会津の平野へ下ります。そこには、あんたがひっくり返って感動するような、最高の景色が待ってますからね」
「ええ、楽しみにしているわ。私の、最高に生意気なインタープリター」
未知の食文化さえも知性で呑み込んだ四十六歳の英国レディと、それを冷徹に導く二十歳の天才通訳。
二人の心は、会津の険しい峠の夜、米と塩の聖域の中で、より強固な信頼で結ばれようとしていた。




