3. 日光の霧
第3話:日光の霧
東京の鉄橋を渡り、千住の宿を抜けて北へ向かうにつれ、空の色はにわかにその生気を失っていった。
見上げる天を覆うのは、灰色とも鉛色ともつかぬ、ねっとりとした雲だ。西洋のそれのようにちぎれて飛ぶ雲ではない。地を這う湿気を吸い上げて、重く、低く、東洋のすべてを包み込もうとする『オリエンタルの雲』。それが、俺たちの旅路に絶え間なく暗い影を落としていた。
「素晴らしいわ、ミスター・イトー。この杉並木を見てごらんなさい。まるで巨人の神殿の柱の間を歩いているようだわ」
宇都宮を越え、日光へと続く旧街道に入ると、イザベラ・バードは馬の上で感嘆の声を上げた。
数百年の歳月が育てた鬱蒼たる杉の巨木が、幾マイルにもわたって道を挟んでそびえ立っている。その景観は確かに圧倒的だった。特注の乗馬ズボンを完璧に穿きこなした四十六歳の英国レディは、スケッチブックを片手に、東洋の神秘へ向けて目を輝かせている。
「景色の心配をする暇があるなら、足元を見てください、バードさん」
俺は愛馬のたづなを引き、冷ややかに遮った。
神殿の柱の間、といえば聞こえはいいが、その床はただの地獄だ。前日からの長雨を吸い込んだ日光街道は、もはや道ではない。ただの「泥の運河」だった。
馬の膝どころか、時折、腹まで浸かるほどの深い泥の海。一歩進むたびに、ボコり、ボコりと不気味な音が響き、ねばつく泥が跳ね上がって、俺が弁天通で全財産をはたいて仕立てたピカピカの黒革ブーツを容赦なく汚していく。
「へっ。神殿の神様ってのは、ずいぶん足元が汚いのがお好きらしい」
「あら、旅行家たるもの、これくらいの泥に怯んでどうするの。ロッキー山脈の悪路に比べれば、可愛いものよ。フンス」
イザベラは強がってみせるが、その顔にはじわじわと、日本の容赦ない「湿気」という目に見えない敵への疲労が滲み始めていた。衣服は肌にまとわりつき、空気はまるでぬるま湯のようだ。英国の乾燥した気候で育った彼女にとって、この梅雨の終わりの空気そのものが、じわじわと体力を削る毒ガスのようなものだった。
ようやく霧の彼方に日光の社寺の屋根が見え、街道沿いの旅籠(宿屋)に滑り込んだのは、日暮れ時をとうに過ぎた頃だった。
「おや、これはこれは、珍しいお客さまで……」
宿の主人は、濡れそぼった外国人の女と、生意気そうな身なりの若い通訳を見て、あからさまに目を丸くした。
案内された二階の部屋は、真新しい畳が敷かれ、格子窓からは日光の涼しい風が吹き込んでくる。イザベラは、ようやくドロドロの馬から解放され、畳の上にへたり込んだ。
「美しいわ……。この簡素で、無駄な家具が一切ない空間。日本人の美意識の極みね。イギリスの、あの重苦しい家具で埋め尽くされた部屋が馬鹿らしくなるわ」
「そう思っていられるのも、今のうちですよ」
俺は自分のトランクを床の間に放り出しながら、ふんと鼻で笑った。
「日本の宿ってのは、目に見えるものだけが全てじゃないんでね。いいですか、バードさん。飯が終わったら、すぐにあの『イギリス製の折りたたみベッド』を組み立てなさい。絶対に畳の上に直接寝ちゃいけない」
「なぜ? こんなに清潔そうな畳なのに。私は日本の布団というものを体験してみたいのだけど」
「死にたきゃご自由に。月給十二ドルの仕事には、あんたの無知に付き合う義務は入っていません」
俺はそれだけ言い残し、一階の飯炊き場へと向かった。
そして――夜が更けた。
日光の山々が漆黒の闇に沈み、宿全体がしんと静まり返った丑三つ時。
突如として、二階の奥から、上品なイギリス英語の、しかし引き裂くような「悲鳴」が響き渡った。
「キャァァァァァァーーーッ!! ミスター・イトー!! イトーーーッ!! 助けて、救助を要請します!!」
廊下を蹴立てて俺が障子を開け放つと、そこにはこの世の終わりを告げられたかのような、イザベラ・バードの姿があった。
彼女は俺の忠告を無視して畳の上に布団を敷いて寝ていたらしい。それが今や、寝巻きの裾を振り乱し、部屋の隅に置いた折りたたみベッドの上に飛び乗り、野生の猿のように縮こまっている。
「どうしました、バードさん。幽霊でも出ましたか」
「虫よ! 虫の軍勢よ!! 畳の隙間から、一万匹の悪魔が湧き出てきたわ!!」
見れば、イザベラの白い首筋や腕が、真っ赤に腫れ上がっている。
俺はため息をつき、行灯の火を近づけて畳を照らした。
いた。小さく、黒く、信じられない跳躍力で暗闇を跳ね回る、無数の影。
「なんだ、ただの『蚤』と『ダニ』じゃないですか」
「ただの!? 冗談言わないで! 私の身体が食べ尽くされてしまうわ! 痒い、痒くて発狂しそうよ!」
「だからベッドの上にいろと言ったでしょう。梅雨時の古い畳の下ってのは、奴らの大帝国なんです。西洋人の白くて柔らかい肌なんて、奴らにしてみりゃ極上のステーキが入ってきたようなもんですよ」
発狂寸前の英国貴婦人を前に、俺は極めて冷静だった。こういう時のために、俺は元町で特注の薬を仕込んでおいたのだ。
懐から取り出したのは、特製のハッカ油と硫黄を練り合わせた気付け薬。それを手際よく部屋の四隅に撒き、イザベラのベッドの脚に塗りたくった。ツンとする強烈な刺激臭が部屋に満ちると、ノミどもは潮が引くように畳の隙間へと逃げ帰っていった。
「……消えた?」
「ベッドの上にいる限り、奴らは登ってこれません。さあ、大人しく朝までそこで小さくなってなさい」
イザベラはベッドの上で膝を抱え、まだガタガタと震えながら、俺を凝視した。
「……ミスター・イトー。あなた、まるで悪魔祓いの魔術師のようね」
「魔術じゃありません。これが日本の『奥地』を旅するプロの技術です」
翌朝。
寝不足で目の下にクマを作ったイザベラを連れ、俺は一階の帳場へと向かった。
宿の主人は、ソロバンをパチパチと叩きながら、ニヤニヤと薄汚い笑みを浮かべて帳面を差し出してきた。
「へへ、旦那。お勘定ですがね。異人さんのお泊まりと、夜中のお騒ぎの特別手当、それに馬の餌代諸々を合わせまして……【一晩で五円】(現在の約十万円)になります」
五円。出たな、と思った。
明治初期、物慣れない外国人を狙った、定番の『居留地価格』だ。当時の普通の旅籠の一泊は、飯付きでせいぜい五十銭(今の約一万円)もしない。その十倍の金額を、こいつは平然と要求してきたのだ。
他の通訳なら、「異人相手だし、揉め事を起こしたくないから」と、雇い主の財布から言われるままに支払うだろう。
だが、俺の目は、一瞬で冷徹な刃のように細くなった。
「おい、親父」
俺はソロバンを叩く宿の主人の手を、上からガシッと掴んだ。
「誰の目の前で、そんなふざけた玩具を叩いてやがる」
「な、なんだよお前さん。通訳の若造の分際で、商売の邪魔を……」
「分際だと?」
俺は懐から、内務省の朱印が鮮やかに押された、日本政府公認の『旅行免許状』を、宿の主人の鼻先に叩きつけた。
「この書類の文字が読めねえ訳じゃねえよな? ここにいる英国婦人は、イギリス公使パークス閣下の紹介状を持ち、内務省が国賓に準ずる扱いとして旅を許可した御方だ。その御方に対し、一泊五円などという法外な価格を要求したとあれば、内務省の役人がどう動くか……分かってるな?」
宿の主人の顔から、みるみる血の気が引いていく。
だが、俺の追撃はそれだけでは終わらない。俺は宿の主人を真っ向から睨み据え、現地の言葉(日光周辺の古い方言)を交えながら、早口でまくしたてた。
「おまけに何だ、あの二階の部屋は! 畳の下はノミの巣窟、天井からは雨漏りの跡。これだけの悪環境で、よくもまあ五円なんて面の皮の厚いセリフが吐けたもんだ。馬の餌だって、ただの雑草を混ぜただろう。俺は以前、イギリスの植物学者とここを通ったんだ。この界隈の相場も、役所への通報の仕方も、全部頭に入ってんだよ!」
「あ、いや……それは……」
「一泊七十銭。馬の餌代込みで一円だ。文句があるなら、今すぐそこの役所に駆け込んで、内務省の役人の前でソロバンを叩き直してもらうが、どうする?」
完璧なまでの論理。そして、相手の「役人に睨まれたくない」という心理を百パーセント掌握した、冷徹な交渉。
宿の主人は、もはやぶるぶると震え、ソロバンを落として畳に頭をこすりつけた。
「わ、分かりました! 一円、一円で結構でございますだ! どうかお役所だけには……!」
俺はフンと鼻で笑うと、トランクから一円札を一枚取り出し、親父の頭の上に放り投げた。
「釣りはいらねえよ。さあ、バードさん。出発だ」
一部始終を後ろで見ていたイザベラ・バードは、呆然とした表情のまま、俺の後を追って宿を出た。
外に出ると、日光の山々には、相変わらず不穏な『オリエンタルの雲』が渦巻いている。だが、彼女の青い瞳に宿っていたのは、恐怖ではなく、俺に対する凄まじいまでの感嘆の光だった。
「ミスター・イトー……。あなた、ただ言葉を訳すだけじゃなく、この国の法律も、悪党の心理も、すべてをコントロールしているのね」
「だから言ったでしょう。俺の仕事は『インタープリター』だ。言葉の裏にある、人間の欲や文化の壁まで翻訳するのが、俺のプライドなんです」
俺は馬にまたがり、泥に汚れた革ブーツで拍車を当てた。
「月給十二ドルは、伊達じゃありませんよ。さあ、雲行きが怪しくなってきた。次は会津の険しい山越えだ。遅れないでください、バードさん」
「ええ、喜んでついて行くわ。私の最高のインプリター!」
頭上に広がる東洋の雲を睨みつけながら、二十歳の生意気な天才通訳と、彼を完全に信頼し始めた英国レディの馬車は、さらなる日本の「奥地」へ向けて、力強く加速していく。




