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天才インタープリター・伊藤鶴吉(イザベラ・バードを「未踏の旅路」へ導いた男)  作者: 東曌


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2. レディのプライド、泥道(ロード)への戦闘服


第2話:レディのプライド、泥道(ロード)への戦闘服


 明治十一年という時代は、現代の人間が思うほど便利な世の中ではない。

 銀座の街にガス灯が灯り、陸蒸気が走っているとはいえ、一歩まちなか外れればそこは江戸の地続きだ。「洋服を買う」などという芸芸しい芸当はできぬ。市販の既製服も、吊るしの革靴も、この国のどこを探したって一着もありはしないのだ。

 西洋の服を纏うということは、居留地の腕利き職人を訪ね、己の身体を隅から隅まで測らせ、一針一針縫い上げさせる――すなわち、完全な「仕立て(オーダーメイド)」を意味していた。

 月給十二ドルの契約を交わした翌日、俺――伊藤鶴吉は、横浜・弁天通にある馴染みの仕立て屋の暖簾をくぐっていた。

「親方、急ぎの仕事だ。英国の気難しそうなレディの随行で、奥州の山越えから蝦夷まで行く。ロンドンの紳士の前に出しても恥ずかしくない『品格(ドレスコード)』を保ちつつ、藪を漕いでも破れない頑丈なツイードのジャケットを仕立ててくれ」

「へっ、鶴坊(鶴吉)。また無茶な旅に出るねぇ。だが、お前さんの身体の癖は分かってる。馬の背で突っ張らないよう、背中にゆとりを持たせて完璧に縫ってやるよ」

 続いて、元町の頑丈な靴職人の元へ足を向け、泥水が一切染み込まない極上の牛革の乗馬ブーツを特注した。これだけで、一ヶ月分の給料がまるまる吹き飛ぶほどの出費だ。

 だが、俺はケチる気など毛頭なかった。

 言葉を訳すだけなら通弁で足りる。だが、西洋の紳士淑女の横に立ち、日本の役人や宿の主人と対等に渡り合うインタープリターは、その『見た目』自体が最初の翻訳なのだ。小汚い格好で雇い主の品格を落とすような真似は、俺のプライドが許さねえ。

 数日後。完璧に身体に馴染んだモダンな乗馬スーツを着込み、鏡のように磨き上げられた黒ブーツを鳴らして、俺は『横浜グランドホテル』の車回しに立った。

 ホテルの豪奢なテラスでは、白い麻服を着た英国人たちが朝のコーヒーをすすっている。実に結構。これぞ文明開化の最先端だ。ここから新橋までは鉄道でスマートに行けばいい。

 チャーターした馬車のステップに足をかけ、優雅に懐中時計を眺めていた、その時だった。

「おい、ミスター・イトー! 荷出しを手伝いなさい!」

 ホテルの重厚な玄関口から、ボーイたちが顔を真っ赤にして、巨大な革トランクを次々と運び出してきた。一つ、二つ、三つ……おいおい、まだ出てくる。

 最後にのっそりと現れたのは、巨大なイギリス製の折りたたみベッド、組み立て式のテーブル、肘掛け椅子、そして山のような西洋缶詰の箱。

「……バードさん」

 俺はこめかみを押さえた。

「あんた、これから引っ越しでもするつもりですか? 俺たちが向かうのは奥州の山道だ。軍隊の遠征じゃないんですよ」

 イザベラ・バードは、相変わらず非の打ち所がないアフタヌーンドレスに身を包み、フンスと鼻を鳴らした。

「あら、どれも淑女が文化的な生活を送るための最低限の必需品よ。それにしても、ミスター・イトー。あなたのその服装……素晴らしいわね。仕立ての良いジャケットに乗馬ブーツ。私の通訳として恥ずかしくない格好よ。私の目に狂いはなかったわ」

「当然です。俺の傲慢さは、この仕立ての数だけ裏付けがあるんでね」

 俺は苦笑しつつ、荷物を無理やり陸蒸気に積み込み、新橋駅へ向かった。そこから内務省の手配した馬を受け取るため、俺たちは東京の泥道へと足を踏み入れた。

 ところが、ここからが本当の地獄だった。

 前日に雨が降ったせいで、東京の街路はひどいぬかるみ、要するにドロドロの田んぼのようになっていた。

 イザベラは、床にすれるほど長いロングスカートの裾を泥まみれにしながら、小さな日本の南部馬を前にして、完全に立ち往生していた。

「……ミスター・イトー。この馬、ずいぶん乱暴で小さくて、それに何より、この服では跨がることさえできないわ。道も歩くだけでドレスが死んでしまう。日本の首都の道路は、一体どうなっているの?」

「だから言ったでしょうに」

 俺は馬のたづなを引きながら、冷ややかに言った。

「西洋化された横浜や銀座なんて一歩外れりゃ、日本の道は全部これだ。あんたがこれから行くのは、これより酷い『誰も通っていない泥道(アンビートン・トラックス)』ですよ。そのお上品なひらひらドレスじゃ、一マイルも進めずに泥人形になるのがオチだ」

 イギリスのプライドが、日本のリアルな悪路に粉砕された瞬間だった。

 さすがの爆走レディも、これで「やっぱりイギリスに帰る」と泣き出すか――。

 しかし、イザベラは違った。

「……ミスター・イトー。そこの旅籠の部屋を借りなさい。少し待ちなさい」

 彼女は唇を噛み締め、宿の一室へと消えた。

 待つこと十五分。

 ギィ、と障子が開いて出てきたイザベラの姿を見て、俺は思わず、持っていた煙管(キセル)を落としそうになった。

「な……なんですか、その格好は」

 そこにいたのは、気品ある英国婦人――ではなかった。

 上半身はフリルのついたジャケットだが、腰から下は、ふわりと広がったロングスカート……に見えて、実は中央で大胆に分かれた「乗馬用の特製ズボン(キュロットスタイル)」だったのだ。足元には頑丈な革のブーツが光っている。

「フンス! 驚いた? 確かに日本は泥道だわ。でも、これは私がハワイやロッキー山脈の荒野を旅したときに自分でデザインした特製の『戦闘服』よ。淑女のプライドは捨てていないけれど、旅の合理性を捨てるほど、私は愚かではないわ」

 イザベラは不敵に微笑むと、長い裾を気にすることもなく、ひらりと南部馬の背にまたがってみせた。その手綱を握る姿は、もはやお嬢様ではなく、一人の不屈の「冒険家」そのものだった。

「さあ、ミスター・イトー! ぐずぐずしないで馬を出しなさい。私たちの誰も見たことのない日本へ、出発よ!」

「……へっ。本当に、とんでもないお人だ」

 俺は苦笑交じりに自分の馬に飛び乗った。

 泥道への戦闘服を纏った四十六歳の英国レディ。そして、そのために全財産をはたいて一流の戦闘服を仕立てた二十歳の天才通訳。

 二人の記念すべき第一歩が、最初の目的地――日光街道の悪路に向けて、力強く踏み出されたのである。

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