1. 伊藤鶴吉 - イザベラ・バードのインタープリター
【登場人物紹介 : キャラクター紹介】
『Tsurukichi Ito: Guiding the Unbeaten Tracks of Isabella Bird』
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)
【実在の肩書】 英国王立地理学協会・初の女性会員 / 伝説の女性旅行家
【本作でのキャラクター】 上品な皮を被った「好奇心のバケモノ」
【解説】
イギリスの裕福な牧師の家庭に生まれた、正真正銘の「お嬢様」
幼い頃から脊椎(背骨)の持病があり、お上品なロンドンの自宅でじっとしていると今にも死にそうに病むが、ひとたび海外の未開の地へ旅に出ると、泥水をすすり馬にまたがって爆走する、嘘のような「旅に出ると元気になる」奇病の持ち主。
四十六歳にして、急速に西洋化していく明治の都市部に背を向け、「本物の古い日本」を見るために東北・北海道の泥道(奥地)へサバイバル旅行を企てる。
彼女の鋭すぎる観察眼と、日本の田舎への辛口(時に大絶賛)な評価が、のちの世界的大名著『日本奥地紀行』となる 。
伊藤鶴吉
【実在の肩書】 明治・大正期における「日本一の通訳(通弁の元勲)」
【本作でのキャラクター】 20歳にして最強、だけど最高に生意気な苦労人主人公。
【解説】
安政四年、黒船の煙が上がる浦賀のすぐ近くで生まれた、生粋の幕末っ子。
幼い頃から外国人と接していたため、二十歳にして英語は完璧、頭の回転はそれ以上。
アメリカ公使館での勤務経験や、イギリス人植物学者との東北・北海道踏破の経験を持つ、若き超実務派エリートだ。
「お世辞は言わない。楽をして大金を稼ぎたい」というちゃっかりした一面があるが、プロとしてのプライドはエベレストより高い。
イザベラに「月給12ドル」という当時の公務員の初任給を遥かに超える超高給をふっかけて煙に巻こうとするが、逆にそのタフさを気に入られてしまい、不本意ながら彼女の「手足」となって地獄の泥道へ突き進むことになる。
伊藤鶴吉 - イザベラ・バードのインタープリター
世の中に「物好き」という人種は数あれど、明治十一年の初夏、横浜のグランド・ホテルにのっそりと現れた英国婦人ほど、たちの悪い物好きはそうそういない。
名前をイザベラ・バードという。
御歳四十六。脊椎に持病があるとかで、お上品なロンドンの医者から「旅でもして身体を動かしなさい」とでも唆されたのだろう。それにしても、行く先がよろしくない。東京から日光、会津、新潟の山を越え、果ては蝦夷地(北海道)のアイヌの集落まで、西洋人の誰も通ったことのない「奥地」を股に掛けようというのだ。泥と蝿とノミの巣窟へ、病気療養に出かける人間がどこにいる。
だが、ここに、もう一人。
別の意味で「たちの悪い」男がいた。
伊藤鶴吉、二十歳。
生まれは浦賀のすぐ近く、安政の黒船の煙を産湯代わりに見て育った幕末っ子だ。アメリカ公使館で揉まれ、英国の植物学者の手先となって奥羽の山をも踏破した経験がある。英語は完璧、頭の回転はそれ以上。要するに、若くて、死ぬほど生意気で、己の腕一本に絶対の自負を持つ天才インタープリター(通訳者)であった。
「――お断りですな」
ホテルの最上階、足の踏み場もないほど頑丈な革トランクや馬の鞍が山積みにされた異様な客室で、鶴吉はふんと鼻で笑った。
彼の前には、すでに何人もの日本人通訳が撥ね退けられた履歴書が散らばっている。前の奴らはみな、お上品にカゴに乗って東海道を観光する仕事だと思ってやってきて、この英国婦人の「泥道サバイバル計画」を聞くや否や、青くなって逃げ出したのだ。
「バードさん。あんたの言っているルートは地獄だ。今は梅雨時だ、道は膝まで泥に埋まる。まともな宿もなけりゃ、西洋料理のひとかけらもない。ロンドンの気取ったレディなんぞ、一日で泣いて逃げ出す。悪いことは言わない、大人しく富士山でも見て帰りなさい」
鶴吉の英語は流暢だったが、その態度はひどく冷淡で、むしろ目の前の貴婦人を見下すような傲慢さがあった。
さあ、怒れ。イギリス人のプライドを傷つけられたと大騒ぎして、俺を追い出せ。そうすれば俺は、もっと楽で実入りのいい観光案内の仕事に戻れる。それが鶴吉の計算だった。
ところが、イザベラ・バードという女は、やはり普通の物好きではなかった。
鶴吉の無礼極まる物言いを遮るように、彼女はパチンと白手袋の手を叩いた。その青い瞳には、怒りではなく、獲物を見つけた猛禽のような鋭い歓喜が宿っている。
「素晴らしいわ、ミスター・イトー! あなたを採用します」
「……は?」
「前の男たちは揃いも揃っておべっか使いの役立たずだったわ。私が死にに行くかのように怯えて、旅を止めようとした。でも、あなたは違う。地獄だと知りながら、私の質問に一歩も引かず、完璧な英語で現実を突きつけた。私が欲しいのは、言葉を右から左へ流す人形じゃない。あの悪路で私を目的地まで引っ張っていってくれる、タフで生意気な相棒なのよ!」
計算が狂った、と鶴吉は胸中で舌を打った。
このおばさん、本物のイカれポンチだ。こうなれば、もう一つの強力な武器を使うしかない。
「待ってもらおう、バードさん。俺を雇うなら、高くつく。他の役立たずどもと一緒にするな。俺の給料は【月給十二ドル】だ。これ以下なら、誰か他の大人しい人形でも探すんだな」
月給十二ドル――現在の価値にして約二十四万円。
当時の警察官や小学校の教師がひっくり返るような、二十歳の若造としてはあまりに不遜で、法外な高給の要求であった。いかに金持ちの英国貴婦人といえど、このふざけた金額を見れば、今度こそ顔を真っ赤にして「出ていけ」と言うはずだ。
イザベラは細い眉をひそめ、じっと鶴吉の顔を睨み据えた。
沈黙が部屋を満たす。勝った、と鶴吉は確信した。
「……いいわ。その条件で契約しましょう」
「――え?」
「泥まみれの田舎でノミに刺された瞬間に泣いて逃げ出す男たちに、安月給を払う趣味はないわ。私はその金額に見合う『安心』を、あなたのその傲慢なまでの自信から買いましょう。よろしくね、ミスター・イトー」
イザベラは満面の笑みを浮かべ、すっと右手を差し出してきた。
してやられたのは、鶴吉の方だった。
差し出された細い手を握り返しながら、二十歳の天才通訳は、心の中で猛烈に頭を抱えていた。楽をして大金を稼ぐはずが、とんでもないバケモノに捕まってしまった。これから始まるのは、一歩先も読めない日本の「奥地」へのサバイバル珍道中だ。
「……へっ、後悔しても知りませんよ、バードさん」
不敵に笑う伊藤鶴吉の、月給十二ドルの不本意なる偉大な旅が、はじまった。




