プロローグ: オリエンタルの雲
【伊藤鶴吉はどうやって英語を学んだのか】
1. 横浜の居留地で、外国人から直接習った
国立国会図書館などの公的記録には、彼は「横浜で外国人から英語を習い、通訳となった」とはっきり残されています。
安政生まれの彼は、幼い頃から開港直後の横浜・居留地近くの環境にいました。当時の横浜には、私塾を開いて英語を教える宣教師(ヘボン博士など)や、貿易商、船乗りたちが大勢いました。彼は学校の教科書からではなく、「生きた外国人が話すナマの英語」を耳からダイレクトに吸収したのです。
2. アメリカ公使館での「実戦」
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』の面接記録(一次資料)によると、伊藤さんは「以前、アメリカ公使館に勤めていたことがある」と自ら経歴を語っています。
当時の公使館は、国際外交の最前線です。外交官たちの高度な会話、公文書のやり取り、日米の役人の緊迫した交渉の場に身を置き、雑用や見習いをこなす中で、彼の英語は単なる「日常会話」から「法律や交渉をコントロールするプロの語学」へと叩き上げられました。
3. 植物学者マリーズとの「地方サバイバル」
イザベラと出会う直前、彼はイギリスの著名な植物学者チャールズ・マリーズの通訳兼従者として、すでに東北・北海道を一度旅していました。
マリーズは植物採集のために山を駆け巡る偏屈な男でしたが、伊藤さんは彼と行動を共にする中で、「学術的な英語(植物名など)」や「旅先での現地人との具体的な交渉術」を完全にマスターしました。
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イザベラ・バード(46)
英国王立地理学協会・初の女性会員 / 伝説の女性旅行家 英国の気品あるお嬢様にして、中身は「好奇心のバケモノ」。
脊椎の持病があり、じっとしていると病むが、旅に出ると途端に元気爆発して馬にまたがる。
自分でデザインした乗馬用のズボンスタイルで、誰も通っていない泥道(奥地)を突き進む
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伊藤鶴吉の「単語帳」
イザベラ・バードの『日本奥地紀行』の一次資料には、旅の最中の伊藤さんの行動について、以下のような生々しい記録が残されています。
「イトーは、私が新しい単語や難しい言葉を使うたびに、いつもポケットから小さなノート(手帳)を取り出し、熱心にそこにメモを取っていた」
ここが最大のポイントです。
彼は「アルファベット(横文字)」の読み書きはできません。では、そのノートに何を書いていたのか?
彼は、「耳で聴こえた英語の音」を、そのまま「日本の文字(カタカナや漢字)」でノートに書き殴り、自分だけの【秘密の対訳単語帳】を自作していたのです。
例:
西洋人が「Interpreter」と言ったら、ノートには 「インタアプリタア = 言葉の裏を訳す役」 とカタカナで書き留める。
「Danger」と聴こえたら、「デンジヤア = 危険・地獄」 と漢字を交えてメモする。
つまり、彼はアルファベットの綴り(スペル)は書けなくても、「耳で聴いた音」と「その意味」を日本の文字で紙に書き留めることで、頭の中に巨大な翻訳辞書を構築していたわけです。これなら、文字は書けずとも、完璧に「言葉の意味」をストックし、訳すことができます。
東洋の天秤、あるいは二つの旅行記
世に名著と呼ばれる旅行記は数あれど、イギリスの誇る稀代の女性旅行家イザベラ・バードが残した二冊のアジア紀行ほど、東洋の「光と影」を容赦なく暴き立てたものは他にない。
一冊は、明治十一年の日本を歩いた『日本奥地紀行』。
もう一冊は、それから十数年後、李氏朝鮮の末期を四度にわたって歩いた『朝鮮紀行』である。
彼女の鋭利なペンは、机の上で並び立つこの二冊のノートを通して、東洋の二つの国が持つ決定的な違いを、冷徹な天秤にかけるように描き出していた。
彼女がのちに訪れた朝鮮において、国を滅ぼす最大の災いとして活写されたもの、
それこそが「両班」と呼ばれる特権貴族階級であった。
両班とは何か。平たく言えば、国を喰い物にする公認の吸血鬼である。
彼らは儒教の経典を唱えることだけを生業とし、「額に汗して働くこと」をこの世で最も不名誉な恥辱だと信じて疑わない。自分のキセルに火をつけることすら従者にやらせ、商業や工業を「卑しい者の業」と見下して、ただひたすらに民衆の富を貪り食う。
これがただの身分制度ならまだ救いようもあるが、たちの悪いことに、彼らには法を超えた「合法的掠奪」の特権があった。
両班が地方へ出向けば、民衆が汗水たらして育てた鶏や卵、貴重な農産物を「役料」と称してタダ同然で分捕る。金を貸せば法外な利息を取り、払えねば容赦なく家財を奪う。役人がこれを取り締まるどころか、役人自身が両班なのだから始末に負えない。
民衆はバカではない。余分な富を持てば、すべて両班に吸い上げられる。ならば、誰も働かなくなるのは自明の理だ。民はあえて貧しいふりをし、家を不衛生なまま放置し、その日暮らしを決め込んだ。国全体から産業も、芸術も、生きる活力も窒息させた元凶――それが両班という人種であった。
ひるがえって、明治十一年の日本はどうだ。
明治維新からわずか十年。新政府の足元はまだおぼつかなく、街道はドロドロのぬかるみで、宿屋に入ればノミやダニの猛攻が待っている。文明開化の華やかさは、まだ地方の隅々までは行き届いていない。
だが、ここには両班のような「合法的な泥棒」はもういない。四民平等という新しい風が吹き荒れ、貧しい農民であっても「自分の稼ぎは自分のものだ」という、人間として当たり前の権利意識と活気が国中に満ち満ちていた。
だからこそ、奇跡が起きる。
異国の、それも女が単身で、二十歳の若造(通訳)を一人連れただけで、夜間に奥羽の深い山道を歩いても、誰一人として彼女を襲おうとはしない。不当に荷物を掠奪されることもない。民衆は貧しくとも親切で、どこまでも治安が良く、生命の安全が保障されている。
「支配層がふんぞり返り、民の活力を殺す国」と、「貧しくとも誰もが前を向いて歩く国」。
イザベラが「西洋化される前の、この国の素顔を見たい」と熱望した理由は、まさにその日本の底力、庶民が放つ生命の輝きに気づいていたからだ。
そして――その奇跡の泥道を、お嬢様のドレスコードを完璧に守りながら、時に生意気に、時に不敵に先導した一人の男がいた。
名前を、伊藤鶴吉という。
月給十二ドルという不本意な高給と共に、爆走する英国レディの「手足」となった若き天才インタープリターの物語。




