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天才インタープリター・伊藤鶴吉(イザベラ・バードを「未踏の旅路」へ導いた男)  作者: 東曌


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0-3 オリエンタルの雲 外伝 〜【秘密の対訳単語帳】

第3話:十二ドルの決意

 

 明治十一年、初夏。


 かつてはただ寂しく横たわるだけの、名もない半農半漁の村に過ぎなかった『長い浜(ヨコハマ)』は、今や東洋と西洋の欲がどろどろに渦巻く、巨大な国際都市の化け物へと変貌を遂げていた 。


居留地に吹きつける風は、イギリス英語の鋭い響き、フランスの兵隊が交わす滑らかな歌声、そして実務を裏で牛耳る清国(中国)の買弁たちの早口の中国語が入り乱れる、混沌たる匂いを帯びていた。


「――おい、鶴坊。また新しい横文字を仕込んできたな」

 弁天通の古い仕立て屋の親方が、仕上がったばかりのツイードジャケットに重いアイロンをあてながら、感心したように笑った。


 二十歳になった俺――伊藤鶴吉は、親方の前で、懐からカタカナと漢字で埋め尽くされたあの薄汚い小さな手帳を広げてみせた。

そこには、アメリカ公使館の修羅場で拾い集めた英語の横に、居留地裏のフランス酒場で盗み聞きした言葉や、条約の裏をゆく中国人たちの生の音声(広東語)が、びっしりと生々しく書き殴られていた。


『シヤアポオ(帽子) = 英国紳士のハットとは違う、フランス野郎の意地』

『ハオ・ピエン(好騙) = 綺麗に騙せた、と裏で笑う中国人の本音』


「親方。今の横浜で、英語しか話せねえ奴はただの半分しか耳が聞こえねえ通弁ですよ」

 俺は鏡の前で、特注のハット――いや、居留地風に言えば『シャッポ』を不敵に傾けて被り直した。

 東京の開成学校を出たエリート書生たちは、紙の上でレ点や一二点を振って「死んだ漢文(条約)」をこねくり回して悦に入っているが、目の前の中国人が生きた口で喋る本音の一言を聴き落として、何度も大損こいてやがる。


 文字なんか書けなくたって、俺のこの耳と、このカタカナの手帳があれば、奴らが腹の底で何を考え、何を欲しがっているか、すべてを完璧に『解釈(インテリプリート)』して、ねじ伏せてみせる。


「へっ、本当にたちの悪い、とんでもねえ耳を持った若造だ。ほら、お前の『戦闘服』だ。持って行きな」

 親方から受け取った、身体の隅々まで完璧に採寸されて縫い上げられた、一分の隙もないツイードのジャケット。


 そして元町の靴職人が仕上げた、鏡のように黒光りする極上の牛革の乗馬ブーツ。

 俺はそれらに足を通すと、これまでにアメリカ公使館や居留地の交渉で稼ぎ出した全財産を、仕立て屋の畳の上にドンと置いた。


一ヶ月分の給料がまるまる吹き飛ぶほどの、プロとしての最初で最大の投資(ドレスコード)だった。


「これだけキメて、次はいったいどこの大物をねじ伏せに行くんだ、鶴坊」


「なぁに、イギリス公使館のパークス閣下から、お呼びがかかりましてね」

 俺はニヒルに笑い、手帳をジャケットの内ポケットに深く仕舞い込んだ。


 公使館を辞める俺を「文字も書けない奴が公使館の看板なしで生きていけるわけがない、安い通弁になるのがオチだ」と嘲笑したエリート書生たちの顔が思い浮かぶ。だが、彼らは何も分かっちゃいない。


「『横浜グランドホテル』の最上階に、何人もの日本人通訳を一日でクビにした、とんでもなく気難しくて爆走するイギリス人のレディが着いたそうだ。


カゴにも乗らねえで、西洋人が誰も通ったことのない日本の『奥地(アンビートン・トラックス)』を歩いて蝦夷まで行くっていう、本物の好奇心のバケモノらしい」


「そいつは、お前さんにぴったりな化け物だな」


「へっ。お上品に文字を並べるだけのエリート書生たちが、青くなって逃げ出すような地獄の泥道なら、俺のこの耳と、このカタカナの手帳の価値が一番高く売れる。


月給十二ドル以下じゃ、絶対に引き受けてやらねえよ。


 俺は仕立て服の襟を正すと、ピカピカの黒ブーツの踵をパチンと響かせて、仕立て屋の暖簾をくぐった 。


 外に出ると、横浜の海の上には、激動の新しい時代へと形を変えながら流れていく、巨大な『オリエンタルの雲』が広がっていた。英語も、フランス語も、条約の裏をゆく中国語も、すべての生の音を耳で支配した若き天才インタープリター。


 俺は、居留地二十番地にそびえる『横浜グランドホテル』の車回しへと堂々たる足取りで踏み込み、その重厚なドアノブに手をかけた。


 ―この扉を開けたその先には、山積みにされた頑丈な革トランクや馬の鞍、そして、あのギラギラした瞳を持つ英国レディ、イザベラ・バードが待っている 。


「横浜グランドホテルでの面接」での、イザベラ・バードとの採用面談。


イザベラとの「月給12ドル」の交渉、彼の培った三つの言語(英・仏・中)の野生の知性の結晶として、男の新たな、知性への挑戦がはじまります。


「150年前にこの国を本当に生きていた、自分たちの先達の剥き出しの誇り」なのです。

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