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天才インタープリター・伊藤鶴吉(イザベラ・バードを「未踏の旅路」へ導いた男)  作者: 東曌


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0-2 オリエンタルの雲 外伝 〜【秘密の対訳単語帳】


第2話:紙の上のカタカナ


 『長い浜(ヨコハマ)』のドブ板通りで囁かれた噂が、居留地にある『アメリカ公使館』の重い扉を叩くまでに、そう時間はかからなかった。


 十五歳になった伊藤鶴吉は、その驚異的な聴覚を買われ、公使館の雑用係兼、見習い通訳として雇われることになったのだ。


 明治初期の外交の戦場は、現代の人間が思うほど英語一色ではなかった。


 数年前、明治四年に清国と結ばれた『日清修好条規』を見れば分かる通り、当時のアジアにおける外交条約や公式文書の正文は、未だ「中国語(漢文)」が絶大な権威を持つ時代だったのである。


 並み居る日本の全権交渉官の後ろには、東京の開成学校を出た、お上品なエリート書生たちがズラリと控えていた。彼らは、卓の上にイギリス製の立派な革表紙の辞書を広げ、万年筆で美しくアルファベットの文字を書き連ねるか、あるいは「返り点」や「送り仮名」に目を凝らして、紙の上で死んだ漢文を一生懸命に日本語へ書き下していた。


 だが、鶴吉だけは違った。

 彼の懐にあるのは、どこにでもある安物の矢立と、懐紙を束ねただけの小さな手帳だった。

「ふん、何が漢文だ、何がアルファベットだ。あんな紙の上の文字をいくら綺麗に書き直したって、奴らの吐き捨てる生の言葉は聴き取れやしねえよ」

 鶴吉は、取調室の隅でお茶を注ぎながら、冷徹にアメリカ側の全権公使の口元を見つめていた。


 当時の横浜居留地は、英語とフランス語、そして実務を裏で牛耳る清国の『買弁(ばいべん)』たちが交わす中国語が入り乱れる、言語のカオスだ。鶴吉の耳は、公使館の廊下や席上で行き交う、あらゆるナマの音を野生の獣のような鋭さで捉えていた。

 アメリカ公使が、日本の役人を脅すように、わざと早く、濁った居留地特有のスラングを交えて英語でまくしたてた。


「This treaty is a baseline. If you reject it, the alternative measures will be taken!」

 エリート通訳たちは、その「alternative measures(代替措置)」という法的な文字の綴りに惑わされ、辞書をめくってオロオロと青ざめるばかりだった。

 だが、その瞬間。部屋の隅で、鶴吉はサッと懐から小さな手帳を取り出し、筆で流れるような日本の文字を書き殴った。


『オオルタナティブ・メジヤアス = 軍艦で脅して、こっちをビびらせるハッタリ』

 鶴吉はアルファベットは書けない。だが、「耳で聴こえた生の音」をそのままカタカナで紙に書き留め、その横に、相手の表情や空気から読み取った「本当の意味」を、漢字と言葉で冷徹に刻み込んでいた。

 さらに、アメリカ公使が交渉の合間、隣に控える清国の買弁に向けてボソリと漏らした、早口の中国語(広東語)での密談を、鶴吉の耳は絶対に聴き落とさなかった。

 紙の上の「条約の文字(漢文)」をありがたがって、レ点や一二点を振っているエリート書生たちには、今まさに目の前の中国人が生きた口で喋った「中国語の音声」が全く聴き取れないのだ。


『ハオ・ピエン(好騙) = 英語の文字に怯えて、日本の役人が勝手に勘違いしてくれた。このままこちらの言い値で押し通せるぞ、という裏での嘲笑』

 鶴吉の手帳は、英語、フランス語、そして条約の裏をゆく中国語の「生の音」のカタカナで、びっしりと埋め尽くされていく。

「お言葉ですが、日本の全権閣下。返り点を打つのはおやめなさい」

 静まり返る取調室に、十五歳の鶴吉の生意気な声が響いた。エリート通訳たちがギョッとして振り返る。

「今、そのアメリカの公使と清国の買弁が交わした言葉はね、ただのハッタリですよ。俺のこの手帳(耳)は誤魔化せねえ。奴らは強気に出ていますがね、隣の中国人に『英語の文字だけで日本の役人が勝手に怯えてくれた(好騙)』と、生の中国語で笑い合ってましたよ。本国の議会から金が届かねえから、実はこっちも引くに引けねえっていう焦りの裏返しだ。つまり、今ここでこっちが突っぱねりゃ、焦って値を下げるのは向こうのほうだ」

「な……なんだと、この無礼者が! 条約の文字も読めぬ通訳の小僧が、外交の席で何を……!」

 アメリカ公使と清国の買弁は顔を見合わせ、自分の腹の底(本音)を完璧に『解釈(インテリプリート)』されたことに気づき、顔を真っ赤にして卓を叩いた。

「おい、その小僧は一体何者だ!? なぜ我々が英語の裏で交わした、中国語の密談まで正確に聴き取れる!」

 鶴吉はフンと鼻で笑うと、カタカナで埋め尽くされた手帳をパチンと懐に仕舞い込んだ。

「なぁに、ただの居留地の野良犬ですよ。……だがね、公使閣下。あんたらが紙の上に書いた綺麗な条約の文字の裏で、どれだけ汚い欲を欲しがっているか、俺のこの『耳』と『紙のメモ』は、絶対に聴き落としちゃくれないんでね」

 英語、フランス語、そして条約の主役たる中国語。三つの異国語の裏にある人間の心理までを、耳だけで完璧に翻訳してみせた少年の姿に、公使館の大人たちは完全に圧倒された。

 横文字も、公式の漢文も書けぬ。だが、耳で聴いた音を日本の文字で紙に刻み、それを最強の武器に変える。

 伊藤鶴吉という、のちに日本一と謳われるインタープリターの「冷徹な基礎」が、この公使館の修羅場の中で、完全に完成しようとしていた。

日清修好条規と中国語外交: 当時の東アジアの外交交渉が「漢文(中国語)の正文」をベースに動いていたという凄まじい歴史。

エリートたちの「死んだ訓読(漢文読解)」と、鶴吉の「生きた中国語の聴き取り」の対比が、これ以上ない知的なCatharsis(カタルシス)となります。


Catharsis(カタルシス)は、

ギリシャ語の「katharsis(浄化)」に由来し、もともとは古代ギリシャの哲学者アリストテレスが著書『詩学』の中で、悲劇を見て観客の感情が洗われる現象を指す演劇学用語として使い始めました。

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